幽顕問答鈔

幽顕問答鈔というちょっと珍しい本を持っている。かなり昔、古本市で購入したのだが、昭和45年発行だからさほど古い本ではない。が、非売品であり、もともとは江戸時代天保十年に記された記録である。

ここには、高峯大神という神になる泉熊太郎という武士が、筑前の国のある人に憑依して、霊界について語るという内容の、なんとも不思議な事件を、その場にいた神主によって書き留められた記録である。

熊太郎が語る霊界についての特徴は簡単に言うと、

・霊の世界は、この世の地上の清浄なる地、霊山や霊島、磯辺などにある。
(天上とか、極楽とか、ないという)

・霊魂は人魂となって、多数が一つに、一つが多数に分かれることができる。
(ただし、熊太郎のような浮かばれない霊は多数に分かれることができない)

・霊界にては、人界(顕界)のことは何もわからない。ただ、執着あり、心に強く思うことだけは知れる。

・神を祀り、霊を追善することは、とてもよいことで、人界の福となる。
(人間界の福は、霊界から与えられるという。神を祀り、お祭りをして人々が喜ぶと、その神も喜んで、幸福をあたえてくれるという)

・何百年も慣習になっている行事は、霊界においても慣習になっている。ゆえに、盆、彼岸に供養することは霊界においても知れており、供養を受けにこの世にやってくる。急に祭りをやめたり、日にちを変えたりすると神が怒って祟られる。
(神事をやめたり、供え物をやめたりすると、悪霊から守ってくれないだけでなく、不幸がやってきたり、神の怒りのために、災難に見舞われるという。神明は、喜ぶときはひどく喜び、怒るときは激しく怒るという)

・死んだ霊魂は、同じ志の者が一ヵ所に集まる。
(これはスウェデンボルグの霊界と同じである)

・極楽も、地獄もない。まったくの作り話である。
(これもスウェデンボルグの霊界と同じ)

・僧侶のお経はまったく効果なし。
(これは、天狗小僧寅吉のいうことと同じ。

・生きている間に大事なことは、法を守ること、親孝行、忠義を尽くすこと。
(これは、ソクラテスが「弁明」「パイドン」で主張していることと同じ)

・霊界と顕界は一体である。顕界において、神と認め、法に定めて社を作れば、あの世においても神と認められる。どちらか一方だけでは神と認められない。
(北野天満宮が作られたいきさつが納得できる)

・善良なる霊であっても、悪事について祟ることあり。(菅原道真の例あり)

・墓所、塚に鎮まっている霊があり。そこを荒らすと祟られることあり。
(平将門の祟りが好例である)

・あの世においても、その集まりの主宰のはからいで、人としてまた生まれてくることあり。

・霊界を守護する極上の霊を、神明という。

・霊を祀るには、墓地、霊棚(仏壇)がよく、神を祀るには社か、神棚がよい。
(これも天狗小僧寅吉の言い分と同じ。なお、寅吉は、供え物の食事は冥界ではいわば「コピー」が作られて、それを食べることができると言っている)

・無念のことは、霊界では解決せず、人界において解いてもらわないと苦しみがやむことはない。霊界にて常に苦しむ。
(これも菅原道真についての説明となっている)

・古い河川、大木、大石、鳥獣、畜類、生霊など、人を悩ますものあり。それら邪気は好んで人を害する。諸神はその魔鬼邪気を除けてくれる。

・この世にて、忠孝を尽くした人は、あの世にて賞誉あり、その霊は大きく高くなる。

・善人であっても、霊界にて怒りあり、下げられる霊あり。

と、いろいろある。他にも、家相の吉凶や、各地の霊所など、興味深い記述が多数ある。

これらの記述をみてみると、天狗小僧寅吉の主張と一致している。ただ、天狗界(山人)についての説明がない。山人はおそらく、神の部類に入れられているのだろう。

これらの記述を考えてみると、やはり、日本の霊界は、独特の慣習があるらしいのは確かで、諸外国とは違うところである。

まとめると、

・日本の神は、元、日本人である。日本で生活していて、信心深い人格者で、ほとんど男性である。(女性の記述がどこにもないので)
・幽界顕界、双方において「神」と公的に認められないと、神にならない。逆に言えば、たとえ社会に反逆した、いわば「逆賊」であっても、双方にて神と祀られれば、その時は、神として現れる。

以上、考察すると、確かに日本の歴史上の出来事と合致しているゆえ、真実に値する事件であったと思う。