個人とお家
現在、世界中のほとんどの人は、自分は自分自身だと思っている。
当然である。
が、長い人類の歴史の中で、日本の歴史の中で、個人という考え方はごく最近になって生まれた観念ではないだろうか。
むずかしい理論や歴史的経緯は知らないが、たぶん、そうだと思う。
ずっとまえの話であるが、知人のMさんの家に行った。この家には何度も来ていて、そこに飼われている犬の名前をぼくは知っていた。が、犬の方は、そのことを知らなかった。
この日、その犬(ゴールデンリトリバー)がいたので、声をかけてみた。
「おーい、ラッキー」
と。
するとラッキーはびっくりして、キョトンとしていた。
そして、ぼくの顔をまじまじと見たのである。なぜなら、知らないオジサンに自分の名前を呼ばれたからだ。
この犬はこう思ったことであろう。
ーーこの小汚いオッサンは、だれだ? オレの名前を知っているはずはない。それなのに、生意気にもオレの名前を親しげに呼んでいる。いったいどういうことだ?
と。
ぼくはそのとき、思った。
ーーこの犬は、自分に、ラッキー という名前が与えられ、自分自身が個人であることを認識している。
と。
ラッキーもぼくも、同じくらいの知能であるようだ。
ペットを飼っている人にとっては当たり前のことであるが、はたして、アフリカなどの野生動物で、自分に名前が付けられている個体が、はたしているだろうか。
たぶん、人間に捕らえられて、都会の動物園に送られ、名前を勝手に付けられる場合以外にはありえないであろう。
もしかしたら、野生動物には、個人(というか個体)は、存在しないかもしれない。
海や湖にいる魚の群れを見ていても、空を飛ぶ鳥の大群を見てみても、どうやら個人というものはなくて、集団が一つの個人になって動いているように思える。
群れがひとつであって、個人は部分なのだろう。
そして、その集団があたかもひとつの意思を持っているかのように、隊列を乱さずに行動する。
おそらく、個人の意思はなくて、テレパシーのようにつなげあって、集団の意思を作っているのだろう。
ほんの最近まで、日本人の名前は、単純なものばかりだった。太郎とか、次郎、花子、美智子とか。
そのかわりに名字のほうはかなりバラエティーに富む。
これは、日本人の場合は、個人という考え方がほとんどなくて、家とか氏、つまり氏族がひとつの単位だったからなのではないか?
このことについては
以前も書いたことがあるが、集団がひとつであり、個人はなかった。そもそも、「個人」という単語がなかったように思える。
個人という考え方はいまでは日本人の間では当たり前になっていて、それどころか、それを奨励し、押し付けてくる。
なんだか妙ではないか?
おかげで、キラキラネームが大流行りである。ぼく自身は、キラキラネームでも別になんの問題もないと思うが、読みにくいのはやめてもらいたい。
集団の力は強い。人数の多いほうが、必ず勝つ。
そんなことはない、とは言い切れない。
暴力団、と世間で言われる団体があって、警察などの組織犯罪を取り締まる役所では、そういった組織の強さを測るものさしがあるという。
それは、単純に、その組織が持つ人数と、資金力だという。ただそれだけだと。人とカネだけだと。
なぜかというと、人間というものは、ある程度の人数が集まると、平均化されてくる。
その中の何%かは、頭のいい人間がいて、何%かは体力のあるものがいる。さらに何%かには必ずバカがいる、と。
そして、そのバカが不要だとして追い出しても、やはり同じ割合のバカが含まれてしまうらしい。
そこで、その集団にたったひとりの強力な指導者があらわれると、ものすごいパワーを発揮することになる。
また、その集団を滅ぼすには、強力な指導者を追放し、バカな指導者に変えるだけでいい、ということだ。
実に、簡単なことである。
このように考えてみると、日本の国の将来はまちがいなく、暗い。おそらく、近いうちに、中国人(漢民族)に支配されてしまうだろう。あの人口と国土と資金力を見よ。
それに比べて日本の人口減少と国土の狭さと資金の減少を見よ。いままでは資金があったので狭い国土でもやっていけたのだが。
ーーぼくはもう完全にあきらめているが。
個人、という考え方をやめて、家系、という考え方に変えるだけで、人は永遠に生きる。個人は死んでも家は残る。
つまり、貴族や武士のような「お家大事」な思考である。
現代において、ぼくらは小さい頃から、集団のために犠牲になった悲惨な人生、というストーリーをさんざん聞かされてきたが、それは正しかったのだろうか・・・
それゆえに、ぼくらは死を恐れ、老後を恐れ、金銭だけを頼りにするようになったのではないか。
もし、「家の存続」「家の安泰」「家業に精を出す」「家を守る」という思考に戻ったのならば、現代社会の悩みの多くは消え去るのではないだろうか。
いつまでも老人ががんばっているからダメなのだ。
ぼくの経験から言っても、37歳を過ぎた息子に家業を任せない70歳の老人の家は滅びている。
実に、多い。
しかし、もはや、親のいうことをすなおに聞く子供などいないし、そもそも、親のほうがダメダメである。
いまされ、もう遅いように思える。
ただし、むかしから財産の多い家系ではやはり、そういう「お家」教育をしているようだ。
ぼくが、何を言いたいかというと、個人的考え方(個人主義)が行き過ぎているのではないか、ということだ。
誰かが、何者かが、画策しているのではないか、と思えるほどだ。
個人か、お家か、どちらが幸福なのかはわからないが、この世で永遠に、もしくは末永く、生きるのは個人ではなく、まちがいなく、お家の方だろう。