予言と終末論

空海は、仏法が廃れ、世が乱れたはるか未来に弥勒菩薩となって転生し、世を救う、という。
空海本人が言ったかどうかわからないが、たぶん、言ったのだろう。

お釈迦様は、彼岸へ行ったら、もう二度と戻ってこない、と言っていたそうだが、イエス・キリストは世界が終わるときに、雲に乗ってやってくると言っていたという。

平安時代、末法思想が流行し、鎌倉仏教が起こったが、西欧においても、ヨハネの黙示録にあるハルマゲドンをおそれ、再び救世主の到来を待っている。

とにかく、宗教は、この世の終わりの予言が大好きである。
そして、このように煽る。

「わが宗教に入り、教祖に帰依すれば、あなたは救われる」
と。

これは強力な勧誘方法であり、脅しとも取れる。
しまいには、お金を払えば、助けてやる、と言う。

そもそも、この世が滅ぶなら、自分たちだけ生き残っても困るだろうと思うのだが、やはり、自分の命は惜しい。
死にたくない。
いざとなったら、ぼくも命乞いをするだろう。

しかし、よく考えてもらいたい。何千年も昔から、世界の終わりが予言されているが、一度も当たったことがない。
当たってないから、いまもこの世がある。

つまり、この世の終わりの予言は100%、当たっていない。・・・当たったときは終わりである。

しかし、人間は100%死ぬ。

必ず死ぬのだから、自分がどう死ぬかを考えたほうがいいだろう。
自分の子孫が生き残って欲しいと思っても、自分の子孫がどんなバカな行動をするか、わかったものではない。そっちを心配したほうがいいだろう。

ぼくはもう老人だから、いまさら世の終わりが来てもぜんぜん平気である。が、若くて元気な人たちにはおそろしいかもしれない。
ぼくがこういう予言を知ったのはこどものころだったが、こわくて寝られなかった覚えがある。

というわけで、教祖たろうとする人は、皆、終末論を唱え、どっかの予言を持ち出して(いっぱいある)不安を煽り、注目を集め、自分こそが救世主である、と吹聴するのである。

聖典にある終末予言には、まったく違う意味が込められているのではないかと、ぼくは思っているのだが、ここではそれには言及しない。

ただ、テレビやマスコミ、インターネットなどを使って、「オオカミ少年的」に注目を集めようとする人々は常にいる。

もともと、ナザレ人イエスだって、こう言っていたはずだ。

ーーあすのことを思いわずらうな。あすのことはあす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労はその日一日だけでじゅうぶんである。

お釈迦さまだって、予言を禁止し、毒矢の譬えを説かれた。

もちろん、予言を信じなくても、万が一を考えて、予言の日に避難するのも、それは個人の自由である。学校だって、仕事だって、勝手に休むがいいだろう。