カバラ神秘思想と毒矢のたとえ

すこしばかり研究しようと、ユダヤの神秘思想、カバラについての本を読んだことがある。

白魔術、悪魔学、占星術、エノック書、ゾハールの書、セフィロトの木、など、神秘的で妖しい雰囲気満載である。

正直言って、よくわからない。理解できないし、あまり深く理解しようとも思っていない。しかし、ぼくのような神秘的なことが大好きな人間にとってはうれしい一書である。

呪文や神秘的な図や絵画など、流行りの魔法マンガの元ネタのような本である。

こういう秘密宗教はさまざまな宇宙論、魔術、占星術、神話、哲学などを「選ばれた優秀な人々」にだけ伝授する、といった決まりのようなものがあり、一般のアホな人間には教えない。だからこそ、秘密宗教なのであろう。

たとえば―――
この世界は仮想的世界であり、本当は実体のない夢のような世界である。それゆえ、実体のある、一般の気づかない世界を知るべきであり、その世界は並行してあるパラレルワールドである―――

といったものや、

人間が死んだのちに行く世界は一つではなく、多次元になっていて、特別な方法でのみ、行き着くことができる―――

みたいな教えを説くのである。

その教えのテキストの名前もまた神秘的で魅力的である。
いわく、「エノック書」「ゾハールの書」「創造の書」「光のこと闇の子の戦い」などなど。

ちなみに、かの有名な「死海文書」が、もし、「アホウドリの海」という名前の場所で発見されていたならば、「アホウドリの書」と呼ばれていて、あまり人気が出なかったのではないか?

かの有名な天才学者アイザック・ニュートンは、晩年、錬金術の研究をしていたというし、ヨハネの黙示録の解読を試みていたという。
また精神医学者のカール・ユングも晩年はパラケルススの錬金術の研究に没頭していたという。

なお、ここでいう「錬金術」は、化学の”黄金を作り出す”術ではなくて、霊的覚醒をめざす術のことを言う。

もしかしたら、彼ら天才的に頭のいい人間でなければ、神の真理は会得できないのであろうか。
われら凡人に救いはないのであろうか。
悟りを得るためには、このように難解な学問を理解しなければならないのだろうか。

ゴータマ・ブッダすなわちお釈迦さまの教え、原始仏典に「毒矢のたとえ」というものがある。そこにはこんな内容が書かれている。少し長くなるが、掲載する。

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世界は永遠であるとか、ないとか、生命と肉体は同一であるとかないとか、人は死後に存在するとかしないとか、そういったたぐいのことを尊師は説かれなかった。それについて聞いてみると―――
ある人が毒矢を射抜かれて、その人が、この矢を放った人が誰なのか、どんな人なのか、どこに住んでいるのか、どんな弓で射たのか、どんな矢であるのか、わからないうちは、この矢を抜くまい。と言ったとする。
そうすると、その人はそれを知る前に死んでしまうであろう。
同じように、世界が永遠であるとか、ないとか、生命と肉体は同一であるかないか、人は死後存在するのかしないのか。
如来が説く前に、人は死を迎えるであろう。
なぜ説かないか。
それは目的にかなわない、修行の基礎となるものではない。悟りに役立たない。すぐれた知恵のために役立たない。
それゆえ、それをわたしは説かない。
わたしは、それらは苦であると説く。苦の原因と説く。説かないことが苦の消滅である―――
と。
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神秘的思想や錬金術、パラレルワールド、異世界の住人、魔術の数々、それらは興味深く、おもしろいものである。が、正しい信仰生活や悟りとは無関係であり、むしろ惑わせるものである。
それゆえ、尊師(お釈迦さま)は、魔術や占い、予言などを全面禁止にしたのである。

魔術やカバラにハマりすぎることは禁物だが、聖典や仏典の研究はよしとしよう。それにしても、そういった哲学的真理を理解したとしても、だからといって、他人を見下したり、自分は特別であり、他の人よりも偉い、などとカン違いしてはならない。

それこそ、最大の害悪となるであろう。