男女の愛について

一般に宗教においては男女間の肉体関係についてはかなり禁欲的色彩が強い。

アダムとイブの「原罪」については、ぼくは否定的意見を持っている。

どうしてほとんどの宗教が禁欲的になったのかというと、バイブルに「姦淫してはならない」と書かれているからだと思われる。

「姦淫」とは、辞書によると、同義に外れた男女の性関係、ということだが、「使い分け」欄に、「最近では『不倫』が一般的」とある。つまり、夫婦間以外の性交渉のことをいう。

お釈迦さまもイエスキリストもどちらの人物も女性たちと仲良くしている。遊女ラハブ、マグダラのマリア、なんかと。ただし、あくまでも友人としてではあるが。

キリストの教えに、「欲情をもって女を見るな」とか言っているので、なんだか女性が「よくないもの」というイメージになったのかもしれない。よくよく考えると、よくないのは欲情を持った男性のような感じがする。

さまざまな聖典や神話において、女性はあまりよいイメージでは描かれていない。
それには、ちゃんとした理由があって、原初、「おんな」という言葉は、相応の理によって、人間の根本的な欲望をあらわすワードなのだ。イメージ言語の単語と表現するとわかりやすいかもしれない。

人間の本能的欲望、肉体的欲望を総合して「おんな」と表現しているにすぎない。

「セクハラ」に敏感な現代社会では叱られそうな理由である。

姦淫の戒めが拡大解釈されてしまい、「結婚した女が、夫以外の男と関係すれば、殺すべし」という、おそろしいことにまで発展してしまったのだと思う。
男の権力が強かった時代ならではのことである。

しかし、だからといって、普通に男女が交際し、結婚し、子供が生まれ、家庭を築くことが悪いわけがないし、いつの時代も家庭の中心は母親である。

むしろ、女性は男性よりも神聖であるし、古代の祭祀物をみても、まちがいはない。

ある人の話では、女性は子宮で愛を感じるが、男性は、前立腺で愛を感じるという。
なぜかというと、彼の見聞によると、恋人にせよ、浮気相手にせよ、妹にせよ、姉にせよ、娘にせよ、はたまた母親であっても、女性の愛を失ったとき、男性という生物は、前立腺に異常をきたす、というのだ。

恥ずかしながら、この時まで、ぼくは前立腺というものはどういった働きをしているものなのか、知らなかった。
この臓器は、下腹、直腸の前側にあって、膀胱の真下にある。ここでは生殖に必要な精液を生産していて、睾丸から精子を受け取って、ここで精液を生産しているという。

栗の実ほどの大きさだというのだが、女性の愛を失った男性は、この前立腺が肥大したり、炎症を起こしたり、そうでなくても尿道がせまくなったりするという。

そして、若いころは前立腺も活発なので、さほど影響は起こらないが、老いてくると、不調になってしまうことが多くなるという。

もしそうならば、男性は前立腺で愛を感じ、女性は子宮で愛を感じるということになる。

いや、異性のみならず、すべての「愛情」を感じるのは、脳や心臓ではなくて、男性は前立腺、女性は子宮なのかもしれない。

あらゆる地球上の生物はその子供を愛する。それは生物の本能であり、命をつなぐための、もっとも大事な感情である。
ならば、子供を残すための臓器、前立腺と子宮が、愛の源であっても、なんら不思議ではない。

もしかしたら、その愛はもっと広く、親族や友人、知人のみならず、人類全体、飼っている猫や犬、美しい海や山、川、樹木など、すべての自然に対しても、感じるのかもしれない。
なぜなら、男にとって、女は最大の愛の対象なのだから。

すべての愛の根源は、男女の性欲にある。
ぼくはそう信じる。
神や神々、神仏への信仰心もつまるところ、根源的な愛はやはり性欲にあるはずである。

だいたい、ふつうの男に「欲情をもって女を見るな」などと言ったところで、そんなこと不可能に決まっている。なぜなら、いい女をみたら、欲情が起こるんだから。

男女の性欲は、本来はもっとも美しい愛情表現である。
特殊な肉体的な事情がない限り、夫婦の結婚生活に、性交は必要不可欠のものである。

心も体も若くて健康な女性は、男にとって、もっとも神聖な存在であり、それを認めない宗教があるならば、それは間違っている。

もし、人間に性欲がなかったならば、すべての思いやり、やさしさ、あわれみ、慈しみ、喜びも悲しみもなかったはずだ。