原罪などないが、性教育は必要である
アダムとイブの物語を曲解して、男女の性交が人類最初の罪である、などと、いったい誰が言い始めたのであろうか。不思議でしょうがない。
男女が交わって、子孫を残す。
このことが犯罪であるわけがない。むしろ、喜ばしいことであり、どこの国の、どの民族でも子孫繁栄はお祝い事になっている。
そもそも、創造主たる神が人間をそのように作るはずがない。しかも神自身が「生めよ、増えよ、地に満ちよ」なんて言っている。
だから、イエスの母が処女懐妊、出産したなどという伝説もまったくのウソにちがいない。福音書の他の部分にも、後世の捏造が認められるのも、この部分がまったく信じられないからである。
お釈迦さまだって、ただの人間なのに、母の脇の下から生まれてきたわけがない。
おそらく、人類創生以来、処女が出産したり、脇の下から赤ちゃんが生まれたことは、一度たりともなかっただろう。
男女の性愛は、それが純粋であれば、それは神聖なものに決まっている。
つまりは、最大に快楽を与えてくれるので、節度が最大に大事なのである。
思うに、性教育は、現代においては、お金の使い方の教育に似ている。
まだ、お金の価値も、危険もわからない幼児に百万円ものおこづかいを無条件に与える親がいるだろうか。
そんなことをすれば、その子は無茶苦茶なお金の使い方をして、悪い大人に利用され、身を破滅させてしまうだろう。
ふつうの親なら少しずつこづかいを渡し、その使い方を監視し、アルバイトなどさせてお金の価値を体験させて、じょじょに使い方を覚えさせ、節度を身につけさせて、お金という欲望の道具の危険性と扱い方を習得させるであろう。
性教育も同じであろうと思う。
体と心の成長に合わせて、少しずつ性について学ぶように監視し、自然に体験(恋愛など)を通して節度を身につけさせて、悪い大人に利用されないように危険性を教えてゆく。
放任するでもなく、禁止するでもない、その子に応じた教育を心掛ける。
男の子には男の子によいように、女の子には女の子のようように、自然に生活を通して身に付けていくのである。
しかるに、この現代社会はどうであろう。金儲けのために悪い大人がさまざまなワナを仕掛けて若者を破滅に導いているように思えるが。
だからこそ、両親もしくは代理の監視が、ある程度必要なのである。
そして、年頃になれば、男女のおつきあいをして、結婚して子孫を残す。
これは自然の流れであって、それこそ、神の望むものにちがいない。
原罪などない。
いうなれば、源愛であり、あらゆる愛情の根本であり、家族や民族、国家の根本であり、もっとも神聖なものである。
節度を失うと罪になるだけだ。
キリスト教などの禁欲的な教会で、古来、やたらに性犯罪が多いのは、原罪だとして禁止するゆえに、抑圧され、異常性愛者になるのではないだろうか。
仏教においても、むかしから男色、特に小坊主に対する性愛が多かったのも同じ理由ではなかったろうか。
自然な、当たり前な性教育こそが、あらゆる教育の根本のような気がするが、どうだろうか。
重ねて言うが、原罪は、ない。