悪はどこから発生したか
「自然の摂理」という言葉がある。自然界を支配している法則のことをいう。
世界は自然界の掟によって、均衡に保たれているのに、真理によって運動しているのに、なぜ「悪」が発生したのだろうか。
でも、自然界にも悪があるじゃないかという意見もあるだろうが、ぼくは、自然界には本来、「悪」はないと思っている。
自然界の掟(つまり自然であり、不自然でないこと)を破るものはすみやかに滅びるので、そんなものは存在できないのだ。
自然界に悪はない。
では、どうやって、悪は発生したのだろうか。
よく観察してみると、野生の動植物には、自然法則のみで、悪は存在しない。
自然界は弱肉強食ではなく、自然に与えられた物だけを食物としているだけで、ライオンがシマウマを襲うのも、自然界から与えられた分だけを摂取しているだけで、憎らしくて殺しているのでも、物品を奪うために殺しているのでもない。
だから、
肉食動物はなんら悪の権化ではないのである。
とすると、悪というものは、どうやら人間界にだけ存在するもののようである。
本来、自然界にも、宇宙にも、物質的宇宙の運動にも、悪はなく、当然の、当たり前のものしか存在しえないので、「善」というものも存在しなかった。
「悪」を人間が発生させたので、その反対を表現する「善」が必要になった。そんな観念はなかったし、必要なかったのだ。
かなりむかし、ぼくが少年のころのことであった。春の暖かい日だったように記憶している。
父に呼ばれて、小さな池のほとりに行くと、ヘビがいた。
大きなヘビがその長い体を伸ばして、昼寝をしていた。ひなたぼっこをしていたのだ。
父にうながされて、そのヘビの背中を見ると、アマガエルが乗っかっていて、これもまた昼寝をしていた。
その二匹は気持ちよさそうに、ぽかぽか陽気の中で気持ちよさそうだった。
ヘビはカエルを食べなかっし、カエルもそれがわかっていたのだろうと思う。
ある友人に聞いたのだが、ヘビがカエルを食べる場面を目撃したという。
ヘビは目の前にいるカエルをにらみつけていると、カエルはまるで金縛りになったように動けなくなったという。そして、ヘビはやすやすとカエルを飲み込んだという。
必要とあらば、ヘビは特殊能力を使って、カエルを動けなくすることができるらしい。
猟犬は、主人の人間が狩りをするとき、その目力(めぢから)で獲物を動けなくして、主人(猟師)が銃を撃てるようにするという。
つまり、猟犬の良しあしによって、猟師の腕が決まる。
何が言いたいかというと、野生動物は、自分の必要以上の獲物を獲って、肥え太ることなどない、ということである。
ライオンしかり、トラしかり、イワシからクジラに到るまでそういうことである。
そうであってこそ、自然界は保たれているし、共存共栄している。
人間だけが、必要以上に食べ太り、異性を求め、自分だけ多くを得ようとする。
生きるために食べることは、当然、自然なことで、よいことである。それでこそ生きてゆけるし、生命をつなぎ、子孫も残せる。自然界が保たれる。
しかし、必要以上に食べるがゆえに、他人の物を横取りしたり、他の生命を奪い過ぎたりする。
食べ物にせよ、水にせよ、異性にせよ、欠乏を補うための欲望は、強烈である。その欠乏を補えばいいのであって、それ以上に求めるので、「悪」が発生したのだ。
その、本来存在しない「悪」が発生したので、その反対の「善」が必要となったのである。
他人の持ち物、他人が当然持っていいものを、自分が必要以上に求めるので、殺すのである。だますのである。
人類の男女比は自然の摂理で、ほぼ50:50だという。だから、人類は一夫一婦制が自然だといえよう。
だからこそ、あらゆる宗教では姦通や同性愛は罪とされている。悪とされている。
お金(マネー)が使われるようになり、発明により、大量の商品が生産されるようになり、必要以上に売りさばかなけらばならなくなった。
だから、自分が生産した商品を多く売るために、必要以上にあらゆる商品に「味付け」されるようになった。
もちろん、食べ物だけではない。海底〇〇メートルでも耐えられる腕時計など、なんの意味があるだろう。近所に買い物に行くのに、時速200キロ出るレーシングカーに乗っていく必要など、ない。
これが「味付け」である。
もっとも、そういう腕時計が好きな人とか、レーシングカーが好きで乗っている人を非難しているのではない。それはそれで大いにいいと思う。人生に趣味は必要なのだから。
それまでは、富といえば、穀物か家畜であった。世話をしないと自然消滅した。ところが、マネーは消滅しない。したら大変である。
そして、必要以上の富を蓄えることが可能になり、それゆえ、巨悪がはびこることとなった。
しかも、現在では瞬時に莫大な富を瞬時に動かすことができる。いちいち船で黄金を運ぶ必要がない。
もはや、富=マネーは単なる電気信号、ただのデータになったのだ。
現代資本主義においては、アタマが良くて、うまく立ち回り、大金を集めた人物を「成功者」と呼び、人生の勝者といって讃美する
はたして、そうだろうか。その人は、人生の勝者なのだろうか。
もし、その人が、自分の生活以上にマネーを貯め込み、他人の取り分までぶんどって、ぜいたくして遊んでいるならば、その人は偉大でも何でもない。盗っ人である、とぼくは考える。
過ぎたるは及ばざるがごとし。腹八分目に医者いらず、というではないか。しかし、うかうかしていては他国に侵略されてしまうご時世ではのんびりしていられないのかもしれない。
貪る(むさぼる)という言葉は、辞書によると、「満足することなく、際限なく、欲しがることである」とある。
「汝、貪るなかれ」
すなわち、必要以上に求める欲望から、悪が発生したのであって、それは人類だけが獲得した自由意志でもある。
節制がない、という状態は、人間が思う以上に、ひどい悪徳だという。
だからこそ、「節制」という徳目を、プラトン・ソクラテスはその対話集の中で特に大事にしたのであろうと思う。