超能力とは何か
なにかと宗教や冥界と関係が深い「超能力」について考えてみたい。
超能力という言葉は、昔はなかった。確かに、戦後に使われるようになった言葉で、以前は、神通力とか霊能力とか言われていて、イエスキリストの場合は奇跡(ミラクル)という。
60年代に呼んだゲゲゲの鬼太郎というマンガではたしか最初のころは「霊力」とか表現されていた。しかし、テレビアニメ「バビル二世」の主題歌で
「超能力少年、バビル二世!」
と歌っていたし、エンディングテーマでも、
「サイコキネシス、テレパシー、超能力を使うとき・・・」
「火炎放射だ、電撃だ、超能力を使うとき・・・」
と歌っている。このアニメ以前にこの言葉が使われていた記憶がない。これが最初なのかもしれない。
そして、例の、日本テレビによる、ユリゲラー氏のスプーン曲げで、大々的に、超能力、という言葉が使われるようになった。このテレビ番組を作ったYプロデューサーは、まちがいなく、CIAのエージェントとぼくはにらんでいる。
「スプーン曲げ」は大流行した。
ちなみに、のちに、再び「スプーン曲げ」ブームの立役者、ミスターマリックは、「超魔術」といっていた(はず)。
テレビやマンガの威力は絶大だ。超能力だって、それらの影響で広がった。いまでも、その手のマンガはある。「モブサイコ」なんかおもしろかったし、最近では、「ダンダダン」というアニメも見ていた。
そもそも、流行というものは、世の中のオジサンが決めている。このことを多くの若者は気づいていない。自分たちが流行を作っているとカン違いしている。
もっと気づいていないのが、当のオジサン世代である。いや、むしろもっと年上の、アタマの薄くなったオジサンが若者文化を作っているのに気づいていない。
超能力ブームだって、定期的に波のようにやってくるが、そういうマンガなどに影響された世代が40代のオジサンになるから、ブームがやってくる。
だから、「いまの若いものは…」などとオジサンが非難するような流行は実は、当のオジサン世代が作っている。
たとえば、ぼくと同年代のチェッカーズという人気バンドは、前髪が長すぎるといって、世のオジサンたちからひんしゅくを買っていたが、あの髪型はチェッカーズのメンバーは嫌がっていたのに、人気を得るために、レコード会社のオジサンたちがやらせていた。
もっとむかしの、フィンガーファイブとかもそうだ。
女子高生のファッションも、自分たちで決めたのではない。全部オジサンが流行させているのだ。その手法はかなり手が込んでいる。AKB48ブームを作ったのも、秋元康というオジサンだった。
東京の渋谷でハロウィーン騒動が起こっているが、あれは、最初、大手広告会社が仕事としてやらせていた。ハロウィーンブームを人為的に作ったのだ。
なぜ知っているかというと、テレビのインタビューで参加者が自分でそう言っていたからだ。
かなり遅れてやってきたJoJoブームだって、その広告会社が計画して成功した。ただし、のちの鬼滅の刃は、失敗したと思うが。
それはさておき、バビル二世の火炎放射はどうか知らないが、電撃はたぶん、できると思う。
なぜかというと、
ぼくの親戚にそういう人がいたからだ。その人は、手からなにやら電気のようなものを出して、他人の病気を治していた。
テレパシーについても、確信をもって、できると言える。なぜなら、ごくまれに、テレパシーを感じて、その人の思いが理解できることがあるからだ。そういうことは、兄弟や親子ではよく起こることにちがいない。
よくこういうことがないだろうか、まったく離れたところで、まったく何の脈略もなく、同じ歌を口ずさんでいたことが。
かなり以前の話になるが、ぼくは昼寝をしていて、夢の中で、さんざん奥さんに殴られ続けていた。あまりにひどいので、うなされていて、目が覚めた。
すると、すぐそばに、こわい顔をした奥さんが座っていて、びっくりした。そして、夢のことを言うと、
「ああ、アンタのことが腹立ったし、バシバシにシバいてる想像してた」
と言った。そして、「うなされてたで」と。
ぼくは震え上がった。
また、子供のころ、たまに正月などに、トランプ遊びで、神経衰弱、というのをやったものだった。
裏返したトランプの裏を対で当てるゲームだが、ごくごくまれに、裏の模様と数字がぼんやりと浮かんで見えることがあって、そういうときは、百発百中だった。
ごくごくふつうの能力しかないぼくができることだったし、姉もときどき見えると言っていたので、たぶん、みんなできるのに、気がついていないか、黙っているかだと思う。
実際、よく当てる人がいる。
・テレパシー(心を読む、送る)
・クレヤボヤンス(透視)
・ハンドパワー(電気治療)
この3つは確実にあるのはわかるが、
・念写 ・念力 ・霊視 ・予言
これらは、ぼくにはできるのかできないのか、わからない。
念写も念力も試してみたが、だめだった。霊視も予言もできない。手品でスプーンを曲げることはできる。
ただ、時々、ぼくにも超能力があるのかも、と思うことはあった。さっきの夢のことやトランプのこともあるが、以前、ぼくの乗ったエスカレーターがよく停止した。電化製品もよく誤作動する。
なにかが電気製品に影響を及ぼすように思う。
しかし、意識的には、全くできないし、まったくいいことが起こらず、迷惑なだけなので、どうでもいい。
ぼくの亡くなった父は、すごく勘のいい人で、どんなところにいっても、どんな山道でも絶対に迷わない。初めて登った山でも、同じ場所に必ず帰ってくる。迷路のような都会の街路でもまったく平気である。迷わない。
この人には、地図はいらない。
超能力である。
これには迷惑した。なぜなら、この男にどこかへ行くための地図を描かせると、線が数本書いてあって、「ここ」と黒いシルシがしてあるだけなのだから。
本人に聞くと、これでわかるのだという。
こっちはふつうの人間なのだ。わかるわけがないではないか。
ぼくの親類にもうひとりこういう人がいた(女性)が、まさに、人間GPSとでもいおうか、超能力者であることにまちがいはない。
とりあえず、ふたりとも、おそろしく、カンが鋭いのである。動物的といってもいい。
おそらく、これらの超能力は、元来、野生の人間が持っていて、失ってしまった本能なのだろう。渡り鳥のようなものか?
一部の宗教は、宗教というより、神通力(超能力)を訓練しているようなところがあり、修験道とか、一部の神道のたぐいの人たちなど、そういう特殊技能を開発訓練して、その能力の優れた人を偉い、としているフシがある。
武道やスポーツの感覚に近い。
しかし、超能力と霊能力は分けなければならないのかもしれない。
テレパシーなどは「超能力」だが、守護霊が見える、などといった霊視、霊体離脱して霊かへ行ったりする能力、霊を自分に降ろす霊媒、などの能力は「霊能力」として区別するべきだろう。
そして、これらの能力(超能力)が発達している人が、教祖になってしまうのだろう。もしくは、やらされてしまうのかもしれない。