霊能者は悟りの人か

霊的超能力、念力による病気治癒や遠隔透視、霊が見える、読心術など、使える人物はいる。
すくなくとも、病気治癒はできる。
なぜ言い切れるかというと、ぼくの親類にそういう人がいたからだ。

母の次兄つまりおじは、東京(といっても当時は舗装もされていないへんぴなところ)に住んでいて、奥さんに先立たれ、すっかり気落ちしていた。確かおじが50才ぐらいのころだった。
いまでいう、うつ病のようになり、まっくらな部屋でじっとしていたという。

おじは親類のすすめだったろうか、故郷の実の姉の家(つまりぼくのおばの家)へ転がり込み、しばらくやっかいになっていた。

その頃のことだった。
その人つまりぼくのおじは不思議な能力が発現して、手を当てて病人を治すようになった。
おばの家はその評判を聞きつけた人が大勢で行列を作り、「手当て」をしてもらうようになった。
もちろん、タダである。まんじゅうやお菓子類はたくさん持ってきたらしいが。

おばは、その大勢の客のために受付をして、お茶を出していたという。
おばがぼくに言うことには、
「自分もやってもらったら、手からビリビリと電気のようなものが出ていた」
という。

しばらくはそういう生活を我慢していたが、親類の者たちはだんだんおそろしくなってきて、
「あんなのを怒らせたらエライことになる」
ということで、ついに追い出してしまった。
福音書にて、奇跡をおこなう(悪霊を追い出す)イエスが、地元の人に「この地方から去ってくれる」ように言われる場面があるが、こういうことなのかもしれない。
こわかったのだ。

その後、東京へ帰ったおじは、衰弱して(食事をとらなかったので)亡くなったという。
なんともかわいそうな話だったが、とても不思議なことだった。

この人の場合は、せいぜい肩こりを治す程度だったらしいが、それでも一応は超能力者であったわけで、一歩まちがえれば、新興宗教の教祖になっていたかもしれない。

もちろん、この人はごくふつうの人で、建設関係の仕事をしていて、ずんぐりしていて、ビールが大好きなおとなしい男だった。とても人格者といえるような人ではなかったが、悪い人でもなく、平凡な人だったことは確かである。

こういう科学的には説明できない人間の特殊能力を、古来、日本では「神通力」と呼んでいた。神に通ずる力だと信じられてきたようだ。

そこで、こういう能力者を、神のような人、神のような人格者、神格者、とでもいおうか、偉大な人(悟りを開いた人)として思い込むに至ったのである。

よく、世間で霊能者と称する人を「詐欺師だ」と非難する人がいるが、霊能者が詐欺師であることもあるだろう。詐欺師には霊能力がない、とだれが言い切れるだろう。
霊能があって、詐欺する人もいるだろうし、霊能がなくて詐欺する人もいるだろう。ただ、圧倒的に、霊能がなくてだます人が多いだろうが。

経営者として能力があって、一代で大事業を成し遂げた人を勝手に人格者と思い込むのと同じぐらい、おかしなことではないか。
ボクシングのチャンピオンが必ずすばらしい精神の持ち主で、人格者である、と思い込むくらい、ナンセンスである。マイクタイソンを見よ。
そういう勝手に「偉大な人」と思い込んだ人が、何か低俗なことをやらかすと、世間の人は怒るのである。ヘンではないか。

神通力は文字通り、神から与えられた崇高な能力であり、人格者のみが与えられる。だから金の亡者になったとたん、その能力は取り上げられる。などというが、実際に見たことも聞いたこともないので、なんともわからない。

おそらく、ぼくの思うに、邪念が出て、集中力が弱まり、当たらなくなっただけではないだろうか。普通の仕事だって、大金に目がくらんでしまうと、チョンボをやらかすし、仕事が雑になる。

神通力は偉い人が使う、などという考え方をするのは日本人独自のもので、キリスト教圏では、男であってもそういう術を使う者は、魔法を使う「魔女」と勝手に認定され、火あぶりになった時代もあったのである。
そして、そういう能力者はその能力がバレないように、必死で隠していた。

魔女ではないが、悪魔のような精神を持った霊能力者、超能力者がいるほうがありうるだろう。なぜなら、小さいころから特別な能力があり、それを自由に使えたなら、普通の精神の人間に成長することのほうが珍しいだろう。
「モブサイコ」の読み過ぎだろうか?

高潔な人格者で、真実に生きる人が、まったく特殊能力を持っていなかったならば、どうだろう。
そういう人が新興宗教の教祖になる確率は低いだろう。
演技でだますなら、別だが。
みんな、偉大な教祖は特別な能力を持っているものと思い込んでいるから。

もし、世界の巨大宗教の創始者が、超能力者でなかったら、巨大宗教にはなっていなかったはずである。

イエスやマホメット、釈迦、空海とか、いわゆる霊媒とか神通力者は教祖になったが、ソクラテスとか孔子は教祖になっていない。

また、もうひとつ思えることなのだが、世の中には無茶苦茶に恨まれている人がいっぱいいる。たとえば、戦争中の敵国の大統領とか。
あれほど怨まれ、呪われているのに、なぜ平気なのだろうか。

たとえば日本は神国だとして、戦争中、神社、仏閣、新興宗教、ことごとく、アメリカを呪っていたし、実際、呪いの儀式をいっぱいしていた。本物の霊能者だって、呪っていただろう。
でも、大統領も、司令官もへっちゃらだった。むしろ、日本の首相がへろへろになっていた。

ふつうの人なら、とっくに呪い殺されているはずである。

そこで、考えられるのは、敵国の首脳には、霊的なボディーガードがついていて、呪いや怨み、魔術など、すべて跳ね返す戦闘員がいるはずだ、ということ。
だから、平気だったと考えるとつじつまがあう。

たとえば、某国は、勝手に占領した土地から、原住民を追い出し、さらに爆撃などくりかえして、大量殺人をしているが、かの首相はまったく平気で、厚顔無恥にも自分たちの正当性を訴え続けている。

ハッキリ言って、罪のない人々を大量殺人している人物を守ることは、神の心に通じることではなく、悪魔の所業だと断言していい。
どうしてその霊的戦闘員たち、サイキック・ガードマンは能力を奪われないのか?

精神の高潔さと霊能力・超能力は無関係である、と考えたほうがいいと思う。