銀のスプーン

相応の理、を、プラトン・ソクラテスが無視した形で、時代が下って、19世紀になってから精神分析学なる学問ができた。

フロイトが、その「精神分析を始めた」、ということだが、その最初の段階は、いわゆる夢占いのようなもので、古代ギリシャで行われていたのとよく似ている。
ただ、フロイトの場合は、夢に現れる現象を「象徴」として「科学的?」にとらえ、神経症の治療に応用したことである。
そして、その大部分の象徴を性的な潜在意識に求めた、と、ぼくは解釈した。

古代の神殿で行われていた夢占いを、「科学」に置き換えたのだ。

20歳のころだったろうか、ぼくは夢を見た。眠っているときの夢はほとんど忘れてしまうのだが、そのときは、ちょっと印象的だったのではっきり覚えていた。

いま記憶しているのは、とても生きのいい魚(タイ)がピチピチと地面で跳ね回っている、という夢で、他のシチュエーションは失念した。
が、その時、目が覚めて、ハッとなぜか気づいた。
―――あの魚は、ぼくの姉だ、と。
気づいた理由は覚えていないが、ふだんはまったく女性としては意識していないはずの姉を、ピチピチと跳ねる女性としてとらえていることに、まったく驚いた。

そして、みずから、気づいた。夢の中では何か知っているものに変換されて表現される、ということに。
それから、しばらく夢日記をつけてみて、いよいよ確信した。
この象徴で現れる「言語」のようなものは、人類共通のものと、民族共通のものと、個人的なものにほぼ分けることができることがわかった。

たとえば・・・
むかし、少年ジャンプで、ストップひばりくん、というマンガがあったが、あの作者が精神的に追い詰められて、ひんぱんに見たという幻覚、「白いワニ」は、男性の性的シンボルを表し、そのシンボルに精が貯められている状態をあらわす。
この白いワニは、小さな白いトカゲとして表現されることもある。これは、ぼくの夢の体験からわかった。

とにかく、性的な表現が多いのは事実で、しかもよく目覚めた状態になっても記憶に残っている。
男性なら、男性器が、竹製品(竹ぼうきや、竹の筒、竹槍、毛筆など)とか高くそびえた杉の木、など。その状況によっても変化するようだ。攻撃的な時は、鋭い日本刀やナイフ、銀のスプーンやフォークなど。

女性がよく見る夢に、ナイフで腹を刺される、というのがあって、ほとんどの女性が若いころにはこの夢を見ることを経験している。しっかりと腹に痛みまであるはずだ。
女性器の場合は、液体の入ったカップ。手洗いの鉢など。

70年代だったか、アグネス・チャンの歌で、「ハローグッバイ」というのがあって、その歌詞がまさに象徴的であり、相応の理の入り口になりうる。

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できることなら、生まれ変われるなら、わたし、こんなかわいいカップになりたい。
あなたは銀のスプーンで、わたしの心をグルグル回す。
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どうだろうか。
もちろん、スプーンは男性、カップは女性をあらわす。

フロイトは、あまりにも性的な分析にかたよりがちだが、潜在意識のなかでは、やはり性的な意識は、当時はかなり抑圧されていたのだろう。

中世の絵画などにもそういった象徴はよく見られる。中世のキリスト教社会での抑圧はかなりあったのだろうと想像できる。
中世の魔女が竹ぼうきにまたがって空を飛んでいるのも、無意味ではないし、人魚が若くて美しい女性であるのも納得できる。

その点、日本ではさほど抑圧されていなかったせいかあまりそういう表現が見当たらないように思う。「好色一代男」なんて本が江戸時代にバカ売れしていたほどなんだから。
若くてかわいい女性を「若鮎のようだ」とよく表現していた。(いまはあまり言わないが)

流行歌の歌詞にはこういった例が多い。

―――ある日、森の中、クマさんに出会った。

このクマは襲い掛かってくる性欲の象徴である、とぼくは解釈する。

こういう初歩的な、「相応の理」は、象徴の読み取りとして、自分で自分の夢分析をすればかなり上達するのではないだろうか。