「ソクラテスの弁明」にみる、相応の理
スウェデンボルグの「相応の理」については、今村光一抄訳・編「霊界からの遺言」にくわしく書かれている。
スウェデンボルグは、旧約聖書「創世記」の解説を、その主著「天界の秘義」(静思社、全14巻、柳瀬芳意訳)で書かれているが、ぼくは未読である。
だから今村氏の抄訳でしかわからないが、それでじゅうぶん、相応の理については理解したつもりである。
創世記の解説については、ここでは置いておいて、相応の理について、である。
プラトン著、「ソクラテスの弁明・クリトン」という著作は、岩波文庫版(久保勉訳)で、もっとも売れた本だと記憶している。
それだけ、ポピュラーなんだろう。
同じ岩波書店から出たプラトン全集第1巻では、4つの話が収録されていて、エウテュプロン、ソクラテスの弁明、クリトン、パイドンとなっている。
これは連続した、いわば続きもので、ソクラテスが、別の件で、父を訴えている男との対話がエウテュプロン、自身の裁判の様子がソクラテスの弁明、脱獄を断るのが、クリトン、みずから毒杯をあおぐのが、パイドン。そうしてソクラテスは死ぬのである。
この4つが続いているのは重要な意味があって、それこそ、相応の理と深い関係がある。
まず、エウテュプロンでは、この対話の相手エウテュプロンが、父を殺人罪で訴えていることについての、ソクラテスとの議論になっている。
エウテュプロンは、神話(当時の宗教はギリシャ神話の神を真剣に信仰していた)の内容を真に受けて、殺人者(父の所有する奴隷)を処罰して、誤って殺してしまった実の父を、裁判に訴え出た。
ソクラテスはそれについて対話をするのだが、その結果は時間切れでおわらないまま、物語は尻切れトンボで終了してしまう。
プラトンは、神話の解釈についてはまったく触れることなく、ほったらかしにしてしまったのだ。
神話の解釈は、それ「相応の理」そのもので、プラトンはそのことについては、わざと避けているようにも思える。
また、別の著作「国家」の第2巻、17章において、(377E)このエウテュプロンにとりあげられた、クロノスとウラノスが関係するギリシャ神話について、再考しているが、ここではただ、「若者に、こういった話をしてはならない」として、いわば、神話についての議論を避けている。
思うに、ソクラテス的弁論術では、論理が通らないことは証明できにくいので、ロゴスによって説明しにくい。だからしかたなく、無視することになったのだろうと思う。
しかも、(思うに)当時は、それについて触れることはかなり危険だったのだろう。ちょうど、イエスが律法学者と対立したように、ギリシャの法学者との対立を避けたのかもしれない。
しかし、現在ならば、ソクラテスもはっきり言うだろう。これは相応(あるいは照応)しているのだと。
「ソクラテスの弁明」では、くわしく触れていないが、「パイドン」において、このように説明している。
(8)一番大切なことは、単に生きることではなくて、善く生きることである。
(10)人は、何人に対してもその不正に報復したり、禍害を加えてはならないのだね、たとい自分がその人からどんな害を受けたにしても。
この2つのことがらは、ソクラテスの哲学の根本だと、思う。
そして、最終章で、この国の国法をひとりの人間に見立てて、この国法に親のように育てられたことを説明し、国法の正当性を述べた後、このように言う。というか、国法を人に見立てて、言わせる。
「もし、お前が脱獄して、無知千万にも、不正に不正を、禍害に禍害を報い、かくてわれわれに対するお前の合意と契約とを蹂躙して、また最も禍害を加えてはならない者
―――すなわちお前自身と友達と祖国とわれわれと――
にこれを加えるなら、その時、われわれはお前の存命中にを通じてお前に怒りを抱くであろうし、またあの世ではわれわれの兄弟なる冥府(ハデス)の国法も、親切にお前を迎えてはくれまい。
なぜといえば、力の及ぶ限りお前がわれわれを滅ぼそうとしたことを、彼らは知っているから」
ここで、「あの世では、われわれの兄弟なる冥府(ハデス)の国法」とはっきりと言っている。
つまり、この世の法律はあの世の法律と兄弟であり、相応の関係にある、ということである。
この世と、あの世は、相応の理によって、つながっている。
と、いうことは、なぜ親孝行しなければ、ならないか、わかってくる。
「父と母は自分を生み、育ててくれた、生命の源である。すなわち、命を与えてくれたのであって、それは生命の源であり、始原である神と同じである」
だから、父と母を大事にしろ、と、イエスキリストも孔子も、きびしく言っている。「父と母とを敬え」と。
先のエウテュプロンにも、ソクラテスはそれを言いたかったに違いない。しかし、時間切れを理由に頓挫させたのである。