自由と孤独

戦時中や国家非常事態になると、とたんに国家権力などによって、自由が制限される。

自由な発言、勝手な行動、しまいには食べ物や所有物まで制限、没収されてしまう。命すら、不法に奪われる。

こういった事態になると、個人の自由など、存在しなくなってしまう。
つまり、「自由」などというのは、平和な時代だけに許されるものであって、国家間、組織間で緊張状態が発生すると、すぐに個人の自由は奪われる。

自由というのは、実は貴重なもので、めったに許されるものではない。
国家という組織によって、制限されているものなのだ。

現代日本においても、自由は制限されている。
憲法では保証されているが、実際には制限されているし、自由な発言などしようものなら、言論によって袋叩きに合うし、わかのわからない罪状で刑務所へぶちこまれてしまうことすらある。

平和な時代だけに、個人の自由が許されるのだ。

どの程度まで、個人の自由が許されているのか、慎重に見定めて、その範囲で、「自由」を行使しなければならない。

ところで、現代日本においては、かなりの自由が認められている。金銭に不自由さえしていなければ。

そして、誰の命令も受けず、どんな強制も受けず、自分の意志のままに行動する自由はかなりあるが、そういった自由を得ても、失ってしまうものがある。

組織。集まり。グループに所属することだ。

誰の命令も受けず、自分の意志のままに行動するためには、いかなる強制も受けるわけにはいかない。そうすると、どんな組織にも所属するわけにはいかない。
組織、グループというやつは、集団行動するわけで、そこには個人の自由は当然、制限されてしまう。

友人グループ、家族、氏族、地域社会、会社、政治団体、宗教団体、自治体、国家。
そこには、決められた規律、もしくは有形無形の規律があって、その分だけ、個人の自由は制限される。

そうすると、個人の自由がある分だけ、組織から離脱せざるを得ないわけで、そうすると、非常に生活が難しくなる。

組織というやつは、人数が多くなればなるほど、資金が多ければ多いほど、強力である。逆に、個人というものは、社会においてはとても弱い。
実際に、ちょっとした紛争とか攻撃に遭おうものなら、個人の弱さというものを痛感するだろうし、ついには何らかの組織の助力をあおぐことにならざるを得ない。

現在の日本では金銭がパワーを持っているので、わかりづらいが、やはり組織の力は強い。個人の力は微弱である。
おカネにパワーがあるといっても、結局は組織の力をおカネで買っているだけの話である。

無法にいじめられても、殺されても、だれも助けてくれない。それでも、真の自由を求める人は、その弱さ、無力さを痛感しつつ、自由を守らなければならないのである。

自由人は、孤独に耐え、暴言、暴力に耐え、組織からの圧力にも耐え続けねばならないのだ。簡単なものではない。