夢がかなうって、なに?
河島英五という歌手がいた。
彼のヒット曲で「野風増(のふうぞ)」というのがあるが、その歌詞で、
「男は夢を持て」
というワードが連呼される。
同じく、岡村孝子という歌手は、
「あなたの夢をあきらめないで」
と、また同様のフレーズを繰り返す。その題名も「夢をあきらめないで」
ーーマインドコントロール、である。
若い頃からさんざん聞かされてきた「あなたの夢は?」という質問。
ぼくはなんと答えたのか忘れたが、たいした夢も希望も持っていなかったようだ。
日本文化の中では、夢、というワードは文字通り、「儚い(はかない)」ものであって、よく和室の掛け軸などで見かけたものだったが、その意味は、「人の人生というものは、夢のように、はかないものだ」という仏教的考え方であったように思う。
夢がかなう、というフレーズは多分、英語圏の、 Dreams come true から来ているのだと思う。
英語をそのまま翻訳して、世間に広まったのだと考えられる。
ぼくがごく小さい頃は、あまり「夢を持て」とは言われなかったように思える。
当時は、何よりもまず、「食っていく」ということが大前提だったのだ。夢を追うなどというぜいたくなことを言っているヒマはなかった。
ひとりぼっちの老人にいたっては、それこそ、爪に火をともすような生活をしていたし、年末には経済苦から自殺する家庭が多発していた。
現在でも、年末助け合い運動、などを実施しているが、そのころの名残だろう。社会保障制度が充実してきた現代日本ではあまり実感がない。それまでは、夜に電気を点けずに節約して生活している家庭すらあったのだから。もちろん、冷暖房などなしである。
だから、生きてゆく、ということに必死だった。そもそもあの戦争が終わったところだったので、夢を追うどころの話ではない。
これから、どうやって、この日本で生きてゆくかーー
それが大事だった。だから、当時は夢を追うことや、波乱万丈の冒険をすることよりも、とにかく、
ーー平凡
であることが、目標だったのだろう。むちゃな戦争にふりまわされた時代だっただけに、平凡な生活をこそ、求めていたのである。
平凡、とか平和とか当たり前、を痛烈に求めていたのである。
だから、「東京凡太」というタレントが人気だった。彼の使っていた唐草模様のふろしきが人気だった。
平凡だったのである。
雑誌だって、「平凡」だったし、しばらくしてから、あまりにも平凡を平凡だと思ったのか、
「平凡パンチ」と、パンチを効かした名前になったようだ。たぶん。
アイドルや歌手の写真集のような雑誌が二つあって、ひとつは「明星(みょうじょう)」もうひとつが「平凡」だった。
それほど、平凡に飢えていたのである。
ところが、東京オリンピックや大阪万博を経て、世の中が大きく変わった。
世の中が急速に豊かになったのだ。
ことわっておくが、前前回の東京オリンピックと大阪万博のことである。
直近のそれらは、むかしのそれに比べると、世間への影響力がほぼゼロに近い。というか、たぶん、影響力はマイナスだったろう。
1億総中流社会、などといわれ、求める商品が比較的簡単に買えるようになった。
大量生産、大量消費の時代が到来したのだ。
そこで、当時の若者(現在のちょうど後期高齢者になったところの人たち)が消費の主役となり、いろんなモノやコトを売るために導入されたキャッチコピーが、
ーー若者は、大きな夢を持て
だったのではないか?
そして、農業から工業への変換を経て、田舎から都会へ移住した若者たちをターゲットとした産業がはじまった。
才能を発掘すると称して、さまざまな金儲けを企画、考案した。
映画俳優、流行歌、アイドル歌手、ミュージシャン、マンガ家、テレビタレント、芸人。
野球選手やプロレス、バレーボール選手、プロボーラー。
「スター」などといえば聞こえはいいが、利用する側にとっては、要するに猿回しのサルなのである。
「アマデウス」という映画で、サリエリの父がそう言っていた。
そういったテレビタレントには、自分の子供にやたらに教育熱心で東京の有名大学へ入れようとやっきになっている人がかなりいるようだ。
つまりは、自分が猿回しのサルであることに気づいて、回される側よりも回す側にさせようとしているという。
回す側、つまりテレビ局の社員たちは、みな、高学歴で入社できた人ばかりだからだろう。
番組の中で、芸人みずからが、自分ではっきりとそう言っていた。
そこで、ぼくはここではっきりと言わせてもらう。
「夢を追いかけるのは、もういいだろう。なによりも、正しく生きることがいちばん大事なのである」
よくタレントやスポーツ選手が「夢は必ずかなう」などと吹聴しているが、ウソである。
そう言っているその人たちの夢がかなっていないので、ウソをみずから証明している。高橋尚子さんとか、本田圭佑さんとか。
また、夢がかなった人が宣言しても意味がない。成功者があとから言えるのは当たり前ではないか。
ただ、確かに若いうちは希望を持って、若い体と精神で努力し、ぶつかってゆくこともいいだろう。
しかし、世の中の、金儲けのために若者を利用しようとする悪い大人のエジキにならないように十分に気をつけなければならない。
ピンクレディーというアイドル歌手は寝るまもなく働かされたのに、驚くほどの薄給だったという。
ひどい話である。
しかし、彼女たちは夢をつかんだ、ということで、みな、彼女たちになりたがる。
今の社会は、何か才能がないといけない、無能であると決めつける風潮があるが、むしろ特別な才能など、ないほうがいいのではないか?
金持ちになりたい、というのも、多い「夢」であるのだろうが、ぼくの知る限り、ぼくの同級生に、会社を起こして、事業で大成功し、大金持ちになった人はいない。
そもそも、スタートラインに立てる人そのものが、少ない。おそらく、希望者の2%ぐらいであり、さらにそこから事業を始めて大成功する人はもっと少ない。おそらく千人に一人ぐらいだろう。
戦後すぐの時代には、事業そのものが、なかった。だからその頃に事業を起こした人の多くは成功した。
時代が違うのである。
「時代のせいにするな、才能がないからそんなことを言うのだ」
という宣伝マンたちがマスコミに多くいる。
だまされてはいけない。才能がないからではない。時代が違うからなのだ。
だから、なにか事業を起こして成功したければ、まだ誰もやっていない事業をする以外に簡単に成功する方法はない。
実際、現在、何か事業を起こして成功した人はほとんどいない。ぼくは知らない。失敗した人だけを知っている。どこかにいるのだろうが。
ただ、適度に、そこそこの事業を趣味のように始めて、そこそこの収入を得て生活している人は無数にいる。こっちはいい。
夢を追いかけて、運と努力の続く人は、ある程度は実現する、ということだろう。
だから、自分の利益のみを求める人たちが、あまりにも成功例ばかりを語り、失敗例を隠していることが問題なのだ。
むろん、才能ある人が、チャンピオンになることは、いいことだし、それをするなとは言えない。
夢を持ち、希望を持って努力し、邁進することが悪いと言っているのではない。それはいいことにまちがいはない。
ただ、あまりにも、無能な人にも、夢を持てば必ずかなう、などと宣伝し過ぎである。全員がチャンピオンになることなど、絶対にない。
夢は必ず叶う、というのはうそである。叶う人もいる、というのが真実だ。