宗教の本質

「ブッダの言葉(スッパニパータ=雑阿含経)」という原始仏典によるとお釈迦様はこう言ったという。

だから人はここにおいて学ぶべきである。世間で「不正」とあると知られているどんなことであろうとも、そのために不正を行ってはならない。(P175)

新約聖書「ペテロの第一の手紙」には

あなたがたは、すべて人の立てた制度に、そのゆえに従いなさい。主権者としての王であろうとあるいは、悪を行う者を罰し善を行う者を賞するために、王からつかわされた長官であろうと、これに従いなさい。

なるほど、そのとおりである。
王の与える法律は、唯一神(真理)の与える律法、真理の相応であるのだから従うのは当然であろう。

しかし、王の法律、王の命令が不正であった場合はどうするのか。

これは正しく生きようとする人間にとってとても重要なことであろう。

仏教(原始仏教)では、出家して社会とのかかわりを極限までなくすことによって、その危険から遠ざかっているように思える。

キリスト・ソクラテスはその不正な国法、長官の命令によって処刑されたが、甘んじてその死刑判決を受けている。

「ペテロの第一の手紙」では、このように説明している。

善良で寛容な主人だけにでなく、気むずかしい主人にもそうしなさい。もしだれかが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶのなら、それはよみせられることである。

すなわち、たとえ悪法であっても受け入れなければならない、という、なんとも腑に落ちない結論なのである。

しかし、これが相応の法則であり、われわれはそれに従わなければならないし、その苦痛を耐え忍ばねばならない、ということらしい。

そうするとすなわち、たとえひどい両親であっても、役人であっても、それに従うしかないし、それが信仰であるということになる。

仏教の教理では四苦八苦といって、この人間として生きることは苦しみである、と説く。なるほど非常理なことがあれば、苦しみであろうし、現代社会の日本の社会的構造は、苦しみを生むシステムになっている。

この不条理な社会で、耐えて生きるにはつらすぎるし不正なもののみが得をしている。
では、何を願って生き抜けばいいのか。

その答えは、宗教ではほぼ共通している。

ーー 来世(死んでからのちに生きる世界)では、真理に生きた人、神の教えを守って生きた人は、良い世界に生まれて幸福になり、そうでない悪人は死後、不幸なところへ行って苦しむ

これに尽きる。

世にある宗教の本質、目的はこれだろう。この短い文章こそが人の生きる道であり、信仰であり、よりどころだったのである。

もちろん、現在生きている状態も幸福であるに越したことはない。それゆえ、出家し妻帯せずに脱社会をはかり、現世で自由人としての生き方を選択したのだと思う。