復讐の禁止
相応の理により、たとえ不正であっても、国法に従わねばならず、為政者の命令に従わねばならず、親の言うことに従わねばならない。
そして、唯一神(が存在すると仮定して)は正しい人が不正な悪に苦しめられていても、助けてはくれない。
すなわち、人生は苦しみである、ということになろう。
無神論者が増えるわけである。
ソクラテスは処刑されるとき(みずから毒を飲む)「クリトン」(10)において、
「人はどんな場合にも不正を行ってはならない」
「ひとはまた、不正に報いるに不正をもってすべきでない」
「人は何人に対しても、その不正に報復したり、禍害を加えたりしてはならない」
としている。絶対的な、復讐、報復の禁止である。
ゴータマ・ブッダは「法句経」(ダンマパダ・岩波文庫版 第1章五)にて
「実に、この世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨みのやむことがない。怨みを捨ててこそやむ。これは永遠の真理である」
ここでも、復讐の禁止が説かれる。
イエス・キリストは、
「悪人に手向かうな、もし誰かがあなたの右の頬を打つならほかの頬を向けてやりなさい――」
「敵を愛し、迫害するもののために祈れ」
と、常識では考えられないムチャな教えを説く。復讐の禁止どころか、それ以上を求めている。
イエスは、旧約聖書にある、かなりの部分(目には目を)を否定している。
復讐および暴力の禁止はどうやら真理であり、すなわち唯一神の心である。
とすると、
ずーっと真理を守り、神の心を実践するためには耐え続けなければならない――ということになる。
それでは、不正を加え続ける者たちについてはどうするのか。
放置しておくだけである。
悪を放置しておいては、ますます被害者が増え、社会が乱れてしまうではないか、と、誰もが思う。しかし、それについてはあまり明確な答えが用意されていない。
仏教においては、「悪い行いには、必ず悪い報いがやってくる」ので、放置しているのかもしれない。
キリスト教においても、「剣による者は剣に滅びる」としている。
ただ、共通しているのは、「悪を行うものは、死後、地獄へ落ちる」という論理である。
つまりは、
「善い者は死後、天国へ行き、悪い者は、死後、地獄へ落ちる」
ということ。それまではガマンしておけ、ということだろう。それが、信仰を持つ者の望みである。
それを信じて耐えるしかないのだ。「死ぬまで」
でも、ちょっと待って。
この「正しい、善き人」は、すでに心の中で、自分に害を与えるものに復讐してないか? 呪ってないか?
「死ぬまで耐え続けて、オレは天国に行くんじゃい。おまえらは死んでから地獄に行って永遠に苦しむがいい。ザマーミロ!」
と。
それはそれでいいんだと思う。しかし、原始仏教ではこう言う。
尊師が「非傷害という名のバラモン」に、こう言った。
「心の中でさえも、他人を傷つけない。それが本当の非傷害である」
これこそが、本当に清らかな心なんだろうな。
江戸時代、仇討ちというのが認められていて、父の仇は討ってもいいことになっていた。忠義であり、孝行である、ということで。
ただし、仇討ちの仇討ちは禁止されていた。
きりがないからである。
なるほど、納得。