隣人愛とは
現代社会でうまく立ち回って生きることは、聖人にとって、清浄無垢な俗社会から離れた別天地で生きることよりつらいかもしれない。
しかし、あえて俗社会に生きる聖人には目的があるからだという。
(ここでは、聖人とは、悟りを開いた、神のような人間のことを「聖人」と呼ぶ)
それは「自分のためだけでなく、他人のためにも生きる。自分の能力を社会に役立てる」ということらしいのだが、それが真の聖なる人間の生き方であり、菩薩の生き方であるという。
しかし、ぼくはそうともいえないと思う。
世の中の分からず屋に、何を言っても、何を示しても、どんなに愛情を尽くしても、まったくの徒労であり、まったくの無駄である。
それどころか、彼らはそんな「聖人君子」にたいして、必ずや、反撃してくるであろう。
そういう人たちだから、何の反省もなく、いくらでも悪事をはたらくのだ。彼らが反省し、悔い改めることなど、たぶん、というか、絶対にない。経験的に、それは断言できる。
ナザレ人イエスの説く「隣人愛」とは、そんな「忘己利他」などという精神ではなくて、ごく自然に、自分の生活に縁のある人に、手助けをする、という意味だとぼくは解釈している。
わざわざ、隣の家に住む人にサービスしに行ったり、ごちそうしたりすることではなく、ましてや、他国まで出かけて行って、ボランティアすることではない。
ふつうの、俗な生活をしながら、身近な人たち、家族、両親、兄弟、親族、友人、近所の人、職場の同僚、そういった生活において接触のある身近な人たち、つまりは「縁のある人」のために、必要な助けをすることをすること、必要なことをすること。
それが、隣人愛だと思う。
それが、どうだろう。
自分の両親をほったらかしにしておいて、頼まれてもいないのに、他人の親の面倒をみて、「ボランティア」などと称していたり、わざわざ他国へ出て行って、援助をしている。自分の家庭は放っておいて。
偽善、といっては申し訳ないが、なんだかおかしいなと思う。
他人のため、だけれど、その他人は、選ばなければならない。
そうして、まず、自分に縁のある人々のために必要な手助けをする。
それが、愛であり、隣人愛であると思う。