自由人とは
原始仏教においては、自由人であることを目標としているように思える。
とりあえず、人間にとって自由とは何か? それを知らなければ、仏教であれ、荘子であれ、自由人を語ることはできない。
原始仏典、スッタニパータ(ブッダの言葉)の「サイの角」では、このように説かれる。
・聡明な人は、独立自由をめざして、犀の角のように、ただ独り歩め
・仲間の中におれば、休むにも、立つにも、旅するにも、つねに人に呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め
・在家の束縛を断ち切って、健き人はただ独り歩め
・他人を養うことなく、――中略―― 犀の角のようにただ独り歩め
・自分より勝れ、あるいは等しい朋友には、親しみ近づくべきである。このような朋友を得ることができなければ、罪とがのない生活を楽しんで、犀の角のようにただ独り歩め
要するに、社会生活には、罪過が多く、他人に支配され、真理にそった生活ができないので、孤独に耐えて、生きてゆこう、ということで、もし同じように真理に基づいた生活をする「真理の人」に出会ったなら、その人とともに生きてよい、ということだろう。
人間の作った社会の中で、うそ偽りなく、さまざまな不正をひとつも行うことなく、次々とやってくる誘惑に打ち勝って生きてゆくことは、むずかしい。
古代ですら、そうだったのだから、現代社会において、まったくうそをつかずに、まったく他人を苦しめずに、すこしの罪過もなく生きてゆくなど、不可能である。
だからそんな社会から断絶して、出家し、孤独に耐えて生活しろ、というわけで、それこそが自由であり、自由人である、というわけだ。
実際、「自由人」を自認していた人物の多くは、周囲の人たち(特に家族や弟子たち)にとっては、まったく常識のない迷惑きわまりない変人だったということで、納得させられる。
ぼくの知人にも、自由な人がいるが、やはり変人であるし、迷惑な人といえるだろう。
彼らは、まず約束などしない。年賀状を出したり、返礼することもない。
訪問は、いきなりやってくる。アポなど絶対に取らない。
お金のことはまったく気にしない。だからといって、借金することもない。
まったく見栄を張らない。気持ちいいほどである。
絶対にブランド品など買わないし、そもそもブランドを知らないのだと思う。
彼らには何か基準となる常識があるのだろうか。たぶん、ない。
仕事などしていても、いつのまにかいなくなってしまう。
なぜかわからない。
それなのに、次の日には平気な顔をしてやってくる。
ゼッタイに会社勤めはできない。本人たちもわかっていて、はじめから会社員になろうとしていない。そもそも、面接に行けないだろうと思う。
普通の常識人なら怒るだろう。
実際、彼らはよく叱られている。が、あまり気にしていないようだ。
ぼくはあまり腹を立てないので、けっこう親しくしている。
だいたい、世の中の常識人のほうが、どう考えてもおかしいのである。
なぜ、借金をして他人が決めたブランド品など買うのか。
なぜ、外見だけ立派な家を買い、生涯かけて借金を返し続けるのか。家賃の安いボロアパートがいくらでもあるし、不動産屋に頼まず、自分で探せば、格安の不動産物件など、いくらでも転がっている。
外国の方々のほうがよく知っていて、そういう場所には外人がいっぱい住んでいる。
よい異性と結婚し、幸せな家庭を築くためには、常識に従うのも仕方ないのかもしれないが、それならば結婚しないほうがましだ、と考えるのも無理はないし、現代の若者が結婚したがらないのも無理はないと思う。
でも、ほんの50年前の日本では、手作りのボロ小屋に住んでいる人がけっこういたのである。
ウチもそうだった。
現代社会においては、マイホームを手に入れて奴隷生活するより、ひとりでいて、自由なほうがまし、と考える若者がいてもおかしくはない。
犀の角のようにただ独り歩め。だからこそ自由人は結婚をこばむのである。
いや、こんな迷惑な人間に結婚相手がいないだけなのかもしれない。