殉教

ある特定の宗教の信者たちはやたら殉教する。
どうやら殉教すると優先的に天国か極楽へ行けるらしい。

ある宗教では、異教徒に対する戦い、自衛のための戦いは、義務とされているらしく、強制はされないが、これで死ぬとすぐに天国へ行ける、ということになっている。
本来は、最後の審判まで待たされるのだが。

そして、それまでどんな悪事をしていても、その罪は帳消しになって、美女と酒に囲まれた世界で王のような生活ができる、ということ。

さて、これが本当だと本気で考えている人がいるのだろうか。まあ、いるからその戦いが行われているのだろう。

ぼくにはまったく理解できない。

そもそも、酒と不倫を禁止しているのに、天国に行って解禁されるなど、ヘンではないか。

正しく裁定する唯一の神が、そんな例外を認めるだろうか。正義と真実と博愛、慈愛を持った、すべての人類の支配者である神が、そんなえこひいきをするだろうか。

そもそも、守らねばならない戒めが、「殺すな」なのに、殺人を奨励するなど、おかしすぎる。
きっと、後からつけ足されたにちがいない。

そして、強引に改宗を迫っておきながら、そこの元からあった宗教から弾圧されたら「迫害だ」と言い出して、自分を正当化する。
そして、自分たちが改宗を断って、殺されたら、殉教者としてまつりあげられる。

これもぼくには理解できない。都合が良すぎる。

この場合もまた、それまでの罪が帳消しになり、天国へ直行する。
英雄扱いである。

たぶん、もともとは殉教などという制度はなくて、教団が組織化され、信者を増やす段階において、作られた制度だと思われる。

ふつうの親なら、子供が親の仕事のために、命を投げ出すことを喜ぶだろうか。逆に、仕事などせずに、他人の子供のふりをして逃げなさい、と願うものだろう。

たとえば、父と母がいて、その子供たちがいるとしよう。
近所の子供たちが、自分たち(父母)を敬わないからといって、その子供たちとケンカになったとしよう。
その父は、息子に「死ぬまでケンカをやめるな。父と母の名誉のためだ。がんばれ。もし死んだなら褒美をやるから」
などと言うだろうか。

ふつうは、ケンカをせずに仲良くしなさい、と言うだけだろう。まともな父であれば。

イエス・キリストは殉教した。磔になって殺されても自分の教えを曲げなかった。と主張する人もいるだろう。
しかし、それはちょっと事情が違うのではないか。

ナザレ人イエスはユダヤ教の神を信じていて、そのエホバの息子であると主張していたのである。
そして、ユダヤ教の教えを正そうとしていただけで、決してキリスト教を教え広めようとはしていなかった。

ユダヤ教の改革をしようとしたら権力者たちに殺されただけである。

キリスト教というのは、のちに、自称使徒たちが勝手に作った宗教であって、ユダヤ教から離れて他民族に布教し始めた新興宗教だったのだ。

唯一神を、すべての生命の源であり、すべてにおいて正しく、宇宙の支配者であるとするならば、その唯一神が、宗教によって人類が分かれ争い、殺し合いすることを喜ぶだろうか。

そんなことは絶対にない。

きっと、お互いに仲良くしなさい、と言うだろう。
殉教だとか、聖戦などという妙な教義は教団運営のために、教団内部の権力者が作り上げたうそっぱちに違いない。

十字軍にしても、自爆テロにしても、神がそんなことして喜ぶだろうか。
むしろ、罪のない人々が死ぬような行為に対して怒るに決まっている。

岩波文庫「ブッダの言葉(スッタニパータ)」に以下のような言葉がある。

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903 ある人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は、「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか――かれらはすべて自分らこそ真理に達したものであると称しているのだが。

912 聖者は、この世で諸々の束縛を捨て去って、論争が起こったときにも、党派にくみすることがない―――
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ある仏教の宗派などで戦国武将と戦争していたが、やはり、極楽浄土へ行けると信じて戦っていたのである。
しかし、本来のお釈迦様の教えでは、何か特定の教義への執着、こだわりを持たないことが大事だった。

何らかの宗教を信じて戦って、死んだなら天国とか地獄へ送ってやろうなどという取引は決して約束されていないはずなのだ。
戦死したら○○神社へ行って、神さまになれる、というのも同じだろう。

信者に法外な大金を要求するのは邪教にちがいない。それどころか、もっと大事な生命を要求するなど、ありえない。

殉教すれば天国へ行けるのか。戦死したら神さまになれるのか。
そんなことはわからない。
本当なのか、うそなのか、死んでみないとわからない。

おそらく、その死んだ人に天国へ行く資格があれば行けるのだろうと思う。

ぼくの父のそのまた祖母は九州にいた。毎年、お寺で紙に書いた絵を踏まされたという。

踏み絵である。

キリシタンはデウスの絵を踏めなかったようだが、もし、ぼくがクリスチャンだったとしても、平気で絵を踏んだだろう。

死にたくないからである。
おそらく、正しい、哀れみ深い神さまならば、許してくれると思う。

踏まないことがはたして本当の信仰だろうか。

げに、偶像崇拝は身を亡ぼすものだと思う。