信仰という言葉
神さま、仏さまを信仰する、という場合、たとえば、このように使う。
―――お大師様を信仰しています
―――お稲荷さんを信仰しています
など。
つまり、なんらかの神さまか仏さまを信じて、御利益を願って、祈っている、ということだろう。特定の神仏を選んで、自分が得をするようにお願いしているわけだ。
別の使い方もある。
――あの人は信仰が厚い
この場合は、一般的な神仏全般を信じている、という意味になる。特定の名前の神や仏を選んでいるわけではない。
――仏教を信仰している
――キリスト教を信仰している
これは、特定の宗教を信仰している、という使い方。
いずれにしても、何かの宗教か、何かの神仏を信じているわけだ。
偶像崇拝をしない、というイスラム教であっても、「アッラー」を信仰している。
思うに、ムスリムはアッラーという姿のない偶像を信仰している。木や石で作った像はなくても、アッラーという固有の存在を信じてあがめているわけだ。
ところで、新約聖書の「ヤコブの手紙」には、こういう記述がある。
(第2章)
(1)わたしの兄弟たちよ、わたしたちの栄光の主イエス・キリストへの信仰を守るのに、分け隔てをしてはならない。
(14)わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。ある兄弟あるいは姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、あなたがたのうち、だれかが「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。信仰も、それと同様に、行いを伴わなけば、それだけでは死んだものである。しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」と言うものがあろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。
これを読む限り、ここで使われる「信仰」は、特定の神を拝むことや、願い事をすることではない。
「神の教えを守り、実行すること」
が信仰であると断言している。
そうすると、最初の言葉はこのように訂正すべきなのかもしれない。
―――お大師様を信じて、祈っています
―――お稲荷さんを信じて、祈っています
信仰、という言葉がいつのまにか「特定の神仏を信じて祈る」という言葉と入れ替わったのではないかと思える。
お釈迦さまはこう言ったという。
「信仰を捨てよ」
この「信仰」は、おそらく祭祀が主だったバラモン教の信者について述べたのだと思います。つまり、特定の神の御利益を願うことをやめよ、と言ったのでしょう。
そもそも、お釈迦さまは、「自分の像を作って、拝め」などと言ったことはなく、ただ、四諦八正道というものを説いたのであって、信仰せよなどとは言っていない。
原始キリスト教では、信仰とは「キリストの教えを守り、実行すること」であり、原始仏教では信仰という考えはなく、ただ、「ゴータマの教えを守り、生活すること」を四諦八正道として、守っていた、ということになる。
つまり、
本来の、真実の宗教では、特定の神仏に対する信仰はない。
ということ。
ただ、教えを守って実行せよ、と主張していて、そのことをキリスト教では「信仰」と呼んでいた。
原初、真理を知って、正しく生きることを「信仰」と表現した。
決して特定の神仏を信じて祈ることを「信仰」とは言わなかった。