知識欲と真理
日本人は好奇心の強い民族だといわれる。たぶん、そうなのだろう。
ちいさな男の子によくいるのだが、
「なんで? なあ、なんでなん?」
と、何でも疑問に思ってしつこく聞いてくる子供がいる。
こういう男の子は、とにかく何でも聞くのだが、けっこう大人でも簡単に答えられない質問をぶつけてきたりする。
「赤ちゃんはどこから生まれてくるの?」
とか。
ウチのこどもが保育園に通っていたころ、何かの行事で、父兄と園児たちで、刈り取った田んぼの中で、弁当を食べていた。
食後、ぼくがゴザを敷いて寝転がっていると、ひとりの子が、
「このオジサン、こんなトコで寝てはる」
などと言いながら近寄ってきた。
ぼくは、ちょっとヤバいな、と感じた。
そして、何だったか、むずかしい質問を投げてきたので、
「知らんな、そんなこと」
と言った。するとヤツは非常に驚いた顔をして、
「このオジサン、知らーらへん!」
と、バカでかい声で叫んだ。ぼくは、
「あのな、おとなでも、わからんことはわからんのじゃい」
と言ったのだが、そいつは
「うちのお父さんは、何でも知ってるで。なんでも答えてくれるでえ」
と、なんだか、哀れむような、小馬鹿にしたような目でぼくを見ながらまたもや叫んだ。
そういえば、ぼくの父がそうだった。ぼくが小さいころ、なんでも答えてくれたが、ややこしい質問だとテキトーなことを言ってごまかしていた。ずっとのちになってから、デタラメであることを知った。
つまりは、父はわからないと言うことができずに、知ったかぶりをしていたわけだ。
何でもよく知っている人はかしこくて優秀。ものを知らない人はバカ。そのように相場が決まっているのだ。
最近では、スマホで検索すればたちまち何でもわかるようになったが、あいかわらず、その情報にはデタラメが混じっている。
とくかく、多くの事柄をよく知っている人は偉い。どうでないとアホ。という単純な図式ができあがっているわけである。
だからというわけではないだろうが、人間、特に男性はなんでもモノを知りたがる。
知識欲が強い。
こんな生き物は人類だけである。
お釈迦さまやイエスが説いた教えはそんなにむずかしいものではなかったはずだ。
真理はえてして単純なのだ。伝説では、ゴータマの教えは野生のシカでも理解できたという。
真理を知ることはやさしいが、実行することはむずかしい。
たとえば、「ウソをつかない」という戒めが仏教にもキリスト教にもイスラム教にもあるが、現代の日本の社会において仕事をして、生きている人間に、はたしてこの単純明快な戒めを完全に実行、守ることが可能であろうか。
無理に決まっている。そんなことをすれば、会社をクビになるどころか、たぶん、牢屋へぶち込まれるだろう。
真理はそんなにむずかしいものではないのに、ことさらに妙な理屈をつけて難しくし、さらにもっと多くのややこしい理論を学ばなければならないように、宗教団体が作り替えてしまったように思える。
そうして難解なお経の解釈とか、哲学的教義なんかが喜ばれるのである。
この過剰な知識欲が、真理をことさらに複雑化させ、教団や権力者たちに都合がいいように歪めさせ、ついには似ても似つかぬ教義にまで変化させてしまったのである。
あくまでもぼくの独断の考えだが、仏教のおいては、初期仏教から長い時を経て、ゴータマの教えは複雑な哲学や体系になってしまった。
これを正すために、大乗仏教運動が起こったのだろうが、それまでの教義を否定して、「空」を説いたがために、かえって事態はややこしくなってしまった。
「空を悟る」という、なんだかわけのわからない教えになってしまい、またそれが何か難しいので偉いことだとカン違いされてしまった。
それを説明するために、やたらと長ったらしい般若経という経ができた。
あまりにも長いので、ダイジェスト版の般若心経という経ができて、これが今も続く「わけのわからん」大ベストセラーになったわけである。
断っておくが、ここまで、あくまでもぼくの勝手な考えである。
とにかく、これも人間の知識欲と、難しいことが偉いと思い込む、「かしこい人はスゴイ」というカン違いが生み出した誤謬だと思う。
キリスト教においても、当時のカトリックがイエスの教えを極限にまでねじ曲げたためにプロテスタント運動が起こったのだが、「信じていれば何をしてもOK 」みたいな教義に変わってしまって収拾がつかなくなってしまったのではないか?
ルターによる宗教改革も大成功とは言えなかったと思う。
これも、なんだかむずかしい教義が生み出した誤謬ではなかろうか。
難解な教義をこしらえたり、論争したり、それをありがたがることは暗に慎まねばなるまい。
過ぎたるは及ばざるが如し。知識も。