相応の理 知らないものは出てこない
聖典のたとえ話や神話には、人類共通に認識される物や人、行事などが出てきて、その時代のみ、その地域のみに限定されるような物や人、行事はほとんど出てこない。
なぜなら、すべての人に理解できる相応のイメージになりえないからである。
たとえば、電話、というものは、格好の心的イメージになるが、時代をこえることはできない。だから、現代人の相応イメージとしてはよく出没するが、聖典や神話には登場しない。
自動車や自転車、バス、列車、駅なんかもそうである。相応のイメージとしては、現代人のイメージにはひんぱんにあらわれるが、聖典、神話にはでてこない。その時代には存在していないのだから、当然である。
では、たとえば、現代人が持つ相応のイメージを昔の人が知るにはどうすればよいのか? どのようにその相応のイメージを受け取るのか。
こういった場合は、その昔の人が知っているイメージに置き換わる。
白い自動車を運転している、というイメージは成年男子で車を運転する人にはよくあらわれるが、江戸時代に人には白い自動車は認識できない。真っ赤なフェラーリなど、想像もつかないであろう。
それならば、駕籠とか、牛車として表現される。舟でもいい。
現代人なら、自分の肉体=自動車 自分の精神=運転手 として夢や想像として表現されるが、江戸時代の人には、駕籠=肉体 駕籠の中の人=精神 と表現されるであろう。
これらは、自分の人生の進路などに関係したイメージである。
また、現代人には小さなヘリコプターとかグライダーなんかで表現されるイメージは、昔の人には、低い雲に乗っていたり、高~い竹馬に乗ることなどで表現される。
これらは、幽体離脱した時のイメージである。
なぜなら、人間である自分が、そのまま空中に飛び上がるイメージが湧かないから、自然に想像できる現象に変換されてしまう。
天使や天狗に翼が生えている理由もここにある。
ほかにも、霊界の階層の移動手段として、現代人ならエレベーターがひんぱんに登場するが、古代にはそんなものはない。
これについてはぼくにも想像できないが、高い凧に乗っていたり、寺院の五重の塔などで表現されるのではないか?それか高い山に登る階段とか。
このエレベーターの相応のイメージは、よく見受けられる。
映画にもなった、「チャーリーとチョコレート工場」に登場する、飛び出すエレベーターとか、「千と千尋の神隠し」に登場するエレベーターなど。
エスカレーターとして表現されることもよくある。
古代の人なら、雲に乗って移動したり、空飛ぶじゅうたんに乗ることもあるだろう。
顕界から脱出して、永遠回帰としての冥界への旅立ちには、空港から飛び立つ白い飛行機が登場する。
飛行機がない古代には、白い空飛ぶ馬とか、ユニコーンの背中に乗って飛び立ったことだろう。
そういうわけで、このサイトのトップページには空港で飛行機を待つ人々の画像を採用した。古代の人々なら白いペガサスに乗って虚空へ飛びあがる映像になったことだろう。
彼らは空港の待合室で、この、いま生きている世界から、永遠の故郷へ向けて、冥界への帰還の旅立ちを待っているのだ。
あの白い旅客機に乗って。