葬式は必要である

昨今は、自分の子供たちに迷惑をかけたくないとか、出費がかさむし無駄だとか、時間がないだとか言って、葬式をせずにすませる例があるし、年々増えているように思う。

自分の葬式ですら、そうなのだから、親とかそのまた親だとかの葬式ならばなおさら、しない傾向がある。認知症になった老人の葬式など、無駄だ、いらない、というわけである。

葬式は必要である。

なにもかもが、コスパ、すなわちコストパフォーマンスを重視してはならない。
(コスパという言葉は、恥ずかしながら、最近になってから知った)

世の中が便利になりすぎたから、生活がつまらなくなったのである。
これからもっと便利に、無駄がなくなってくると、もっとつまらなくなり、その「便利」に乗っかった人だけが大金を集め、そうでないひとは、ますます貧乏になる。

そうして、また「便利ですよ」などという道具やシステムが開発され、さらにその格差が広がる。

この日本で生活がつまらなくなった最大の原因は、携帯電話の普及だと、ぼくは思っている。インターネットはそのあとである。

マンガやアニメ、映画なんかで異世界物が多いが、当然である。
携帯電話がある世界では、物語が作りにくい。偶然の事件の要素が減るうえに、すぐに事件が解決されるからである。

もし、完全なる監視社会になれば、探偵ものや刑事もののドラマは絶滅するだろう。そうなれば、時代劇に逆戻りするか、異世界へ飛んでいくしかない。

偶然の出会いが原因となる恋愛ドラマすら作るのが難しくなる。というよりも、現実社会で偶然の出会いによる恋愛など、ほぼなくなるだろう。
AIによるマッチングアプリが進化するだろうから。

そうするとますます、モテる男はモテるようになり、そうでない我々は、いっそうつらい人生を送るわけだ。

そして、結婚生活もつまらなくなる。ぼくはAIが計算した幸せな結婚など、信じていないから。


なぜ葬式が必要かというと、死んだらすべてが終わり、ではないからだ。

葬式はコスパが悪い、などという考えは、おそらく死んだらすべてがおしまいで、霊魂も、来世もないと考えているからだろう。もし、そういう考えがあるとしても、葬式など無駄で、関係ないと思っているはずだ。

しかし、決してそんなことはない。
霊魂は存在するし、永遠に不死、不滅なのだ。あの世のほうが、死後の世界のほうが現世よりもずっと長いのである。そちらが真実で、この世のほうが、まぼろしなのである。
この世における死亡は、あの世においては誕生なのである。

人間は死後、生前の誕生日などというものは完全に忘れ去ってしまい、その死亡日である命日だけが重要な日なのだ。「命日」とは、よくいったもので、その命日こそが、本当の記念日なのである。

戦前までは、個別の誕生日などはあまり祝わなかった。お正月に、全員が年齢を加えた。そして、命日だけはそれぞれの年月日だったのだ。

むかしの人は、よくわかっていたのである。

人は死ぬとあの世、霊界へと案内してくれる霊がやってくる。先に亡くなった親族の場合が多いようだが、その役目を仕事にしている役人の霊の場合もある。
一説には、その役目の霊が親族の姿に化けている、というのもある。

そして、この案内の霊をすべて拒否してしまうと、もはや霊界に行けず、宙ぶらりんのままの迷子の霊となってしまい、方々をうろついたあげく、ついには自分のことも分からなくなり、抜け殻のようなガイコツ霊か、ただの玉になってしまう、という説まである。(「霊界インタビュー」という本)

よく、死ぬ間際の人が、目の前を両手で、まるでハエを払うように、振り払い続ける場面があるが、あれは、案内の霊が送る「情報の玉」もしくは「案内の巻物」を投げ渡されるのを拒否しているのではないかと思う。

だからこそ、葬式をあげてもらい、現世の人々と別れをして、案内の霊とともに、すなおにあの世へ旅立つべきなのだ。
自分が死んだこともわからず、信じず、ふらふらと浮遊霊として、不幸な霊になることなど、いいことではない。

一説では、こうしたのちに、悪霊の仲間に引き入れられて、苦しめられるという。

また、葬式という儀礼は、残された遺族の人々の心に整理をつけ、心理的な苦しみを解放する効果もある。

よく葬式の席で親族同士がケンカをするが、あれは悲しみのエネルギーが、抑え切れずに、怒りのエネルギーに変化したものにほかならない。だから、こういう場合の言い合いはあとになって、どうしたあんなことを言ったのだろうかと妙に思うものである。

ともかく、だいたいにおいて、むかしからの慣習は続けていったほうが無難な例が多い。
たとえば、結婚式もそうである。

結婚式も必要である。

コスパはもういらないが、儀式はこれからも必要である。