古代人の信仰

2000年前の古代人と、現代人では、その精神構造がまったく違う。

古典など読んでいると、そうとしか考えられない。
スウェデンボルグの「霊界からの遺言」(今村光一抄訳・タツの本)によると、「創世記」における、アダムとイブの時代は黄金時代であって、霊的に覚醒した人類の時代であった。
そして、時代が下るにつれて、霊的知覚能力が衰えていった、という。

ここでいう霊能力とは、いわゆる超能力ではなくて、真理を見通す心、仏教的に言うならば、悟りを開いた仏陀、ということになる。

すなわち、アダム時代の人々はブッダ(目覚めた人、覚醒者、霊覚者)であったわけだ。
そして、この本では、いかにして人間の信仰が堕落していったのかが詳細に書かれている。

古代人は神の声を直接聞くことができて、直観力によって、真理を感じることができたという。この神の声、真理というのは、仏教でいうところの仏心、般若波羅蜜多と同じである。

古代人はみな、悟りを開いていたわけだ。

原始仏典、スッパニパータ(中村元訳、ブッダの言葉)によると、尊師が簡単に真理を説明するだけで、それを聞いた人々が、
「すばらしいことです。すばらしいことです。(中略)ゴータマさまはさまざまな仕方で理法を明らかにされた」と感激し、弟子入りしている。

いわゆる決まり文句なのかもしれないが、初転法輪のさい、最初の説法を聞いていたコンダンニャという人物が、すぐに悟って、「コンダンニャは悟ったのだ」と、お釈迦さまは叫んだという。
それで、彼の名前は「アンニャー・コンダンニャ(コンダンニャは悟った!)」になっちゃったとか。

ちょっと、悟りを開くのが早すぎないか?
つまり、この当時の人は霊的真理を簡単に会得できる素地があったのだろうと思われる。

イエスの伝道書「福音書」においても、イエスが、道端の人に「わたしについてきなさい」と言っただけで、ペトロとその兄弟は仕事の網を捨てて、すぐに弟子になっている。
つまり、ナザレ人イエスが本物であることがすぐにわかったのである。

ところが、時代が下り、宗教界が腐敗をはじめ、それにともない、人類がその真理を得る心を失い始めて、もう何が真理か、何が神かも、わからなくなったのである。

そして、宗教界が腐敗し、工業化が進み、科学的思考が幅を利かせるようになって、カネと権力のみを求める社会に変貌してしまったのである。

この科学と論理と証明の時代においては、人間の感性や悟りよりも、屁理屈と証拠がなければ人々を納得させることはできない。
そして、世の中はウソの理屈と、捏造された証拠ばかりが目立つようになってしまった。

神の心、真理の心には、証拠は与えられない。
そもそも、物質的現象ではないので、証拠を与えられそうにない。

「相争う哲学的見解をこえ、」ることはできないし、
「この邪悪な時代には、証拠は与えられない」のである。

いまの時代には、正しく説かれた真理の言葉を「信じる」しかないのかもしれない。