イデオロギーなど、ない
こういう話を聞いたことがある。
この日本はこんなに平和に見えるのに、これほど多くの人々が、わかのわからない団体に所属し、地下活動をしていることを知って、驚いた、と。
そして、ニュースにならない数々の事件とその実行組織を知っておそろしくなったと。
そして、意外にも弁護士や政治家の下っ端の人(失礼)は、何も知らなかった、と。
何よりもぼくが、「そうだろうな」と思ったのは、
―――彼らは理想を語り、弁が立ち、頭が良くて議論はうまいが、中身がなんにもない。
ということ。
なんとなく、わかる気がする。
なぜかというと、彼らのいう思想とかイデオロギーは、誰かが作った思想の受け売りだからだ。
自分で考えてないけれど、誰かが作ったその理論はよく覚えているので、それをまねてまくしたてるのが上手なのだと思う。
で、彼らの行動原理は、その理想とする思想とは裏腹に、カネだけが目当てだと。あとは、お決まりのオンナの獲得である。
なにせ、彼らはカネに汚くて、よく女性を襲うらしい。
言ってることと、やってることがまったく違う、と。右翼も左翼も、正義も理想もへったくれもない、と。
しかも、彼らの活動の多くはインターネットへと移行していて、大金が使われているらしい。そういえば、政治活動をしている街宣車を最近はあまり見なくなった。
真実のところはぼくは知らない。でも、たぶんおおかたはそうだろうなと思う。
つまり、彼らのイデオロギーは、カルト宗教と変わらない。
そこで、思うのだが、偉そうなイデオロギーや思想、教理などをすべて捨てて、心の自由を勝ち取るべきなのではないか。
それこそが、「真の心の自由」ではないだろうか。
心の自由とは、この時代の、この日本における、どのような習慣、価値観、文化にもとらわれず、中立の立場で物事を観察すると同時に、それにとらわれずに心を自由に、縛られず、また行動できることこそが、真の自由ではなかろうか。
それこそが真の自由人の幸福なのではないだろうか。
自由人は、誰かがこしらえた思想など持たない。たとえば、武士道などという規律もなければ、大和魂などという面倒な心もない。もっとも、元々大和魂とは、源氏物語などをみてみると、現代の意味とはかなり違うようだが。
共産主義もなければ民主主義もない。主義を持たない。
肩書などには一切こだわらず、ましてや頭が良い悪い、容姿が良い悪いなど、眼中にない。
金持ちも貧乏人もいっさい区別なし。
権力者が都合よく決めた法律にも価値を認めない。善悪からさえも自由である。
ただ、心のままに行動して、その心には悪がない。「心の欲する所に従えども矩を踰えず」
自由人には、天の真理、神の心があるだけで、しかもそれに固執しない。
真に幸福な自由人には、イデオロギーなど、不要なのである。