神は救ってはくれない
一生懸命、信仰しても、神は救ってくれない。
そうして、信仰を捨てる。ありがちなパターンである。
そのとおり、神はいくら懸命に祈っても、ダメな時は救ってはくれないようだ。
いや、そんなことはない、救ってくれた、と主張する人もいるが、それは神が救ってくれたのか、誰かが救ってくれたのか、偶然なのか、わからない。
ぼくとしては、守ってはくれるけれど、救ってはくれないような感じがする。わからない。
ときたま聞くのが、せっかく親身になって世話をしたのに、なぜか自分が感謝されないで、その人が信仰する「神が救ってくれた」と思い込んでいる、という苦情。
なんでしょうね、コレ。
神は、「わたしは神です。ほら、わたしが救いました」とは言ってくれないのだろう。
ある新聞の記事に、ある新興宗教の信仰を捨てた人の記事が載っていた(令和5年)。興味を持ったので、切り抜いておいた。それによると、
宗教2世として育った。ムチで打たれたこともあった。11歳の時、洗礼を受け、正式な信者になった。
男性信者と結婚、暴力を受け、離婚。再婚するも、教団は教義により再婚を認めず、除名され、母とも面会できなくなる。さらに、再び夫の暴力。
身近な人が亡くなったことで心を病んだ母が自殺寸前まで追い込まれていた。家族のように思っていた信者仲間はそれに気づかなかった。
「神なんていない。教団と縁を切り、わたしがお母さんを助ける」
その後、離婚が成立。
信仰を捨て、教団とは縁を切る。
といった内容。
この世界をぐるっと見て回ると、どう考えても万能であるはずの神は世界を正しく支配していて、よき人を守ってはくれていないようだ。
逆に、悪がのさばり、悪魔が支配している、といわれれば、そんな気がする。どちらかといえば、こちらが正解のような気がする。
なぜなら、多くの正しい人は殺され、多くの凶悪な大量殺人者は英雄として天寿を全うしているのだから。
若い頃、ある屋台の飲み屋によく行っていた。その屋台は無断で道路わきに作ったものであった。
なぜか、その近所に2つの新興宗教の支部があった。
その当時、ひとつは移転してきたばかりだったので、その教団は勧誘に熱心で、近所をまわっていた。
ある夜、ぼくはいなかったのだが、友人が屋台で飲んでいるとき、いきなり、その教団の信者の方々がやってこられた。そして、酒を飲んで騒いでいた客たちに説教し始めたという。
いわく、「あなたたちは、ここでいったい何をしているのですか。お酒を飲んで、いやらしい話ばかりして、騒いで。いけないことです」
と。
それを聞いて、はじめは面白がっていた客たちも次第に腹が立ってきて、みんなで怒鳴り返して、追い返したという。
ぼくはそれを聞いて、その時いなくてよかったと思った。お説教など、ゴメンである。
彼(友人)によると、彼ら信者たちはとにかく、まじめなのである。いたって、ひどくまじめで、清廉潔白なのだ。ぼくらとは違う、と。
無断で作ったボロ屋台(手作り)で、無許可で営業している店で、飲食しているなど、もってのほかである。しかも、いまでは考えられないことだが、飲酒運転して帰っていたのだ。
ぼくらは、悪の権化だったわけだ。
そのまじめで、清廉潔白な信者さんたちが不幸にあって、悪の権化のぼくらが平気でのんべんだらりと生活しているなど、許せないはずだ。
だからこそ、その新聞記事の人は信仰を捨てたのである。
あれこれ強制するくせに、かんじんな時に知らん顔しているその神に、何もしてくれなかったその神に、むちゃくちゃ腹が立ったのだ。
たとえが悪いかもしれないが、さんざん金を使わされて、忙しい時間を割いて、ほんのちょっとデートして、ちょっとした高級車まで購入して、スーツを買い、おしゃれに気を使い、高級レストランで高価な食事をごちそうしたのに、気がついたら違う男と付き合っていた女に感じる感情に似ているかもしれない。ちょっと、たとえが悪いかもしれないが。
いくら信仰しても、その唯一神はその人を救ってはくれない。みずからの手で救いを得るしかないのである。自らの手で、工夫で、努力で、救いを得るしかないのである。
その上で、神に祈るのもいいだろうが、あてにはならない。
もし、救ってくれるとしても、ほんのちょっと、手を貸してくれるだけであろうと思う。何もせずして救われるはずがない。
―――人事を尽くして天命を待つ。
―――天は自ら助く者を助く
この言葉こそが、真理だと思われる。
そもそも、特定の宗教を信じている人だけが無条件で救われるはずがない。もし唯一神がいるとしたら、そんなえこひいきをするわけがない。
自然から与えられた生命の回復力を最大限に活用することが大事であり、それこそが神の力を受け入れることではないだろうか。生命の回復力、すなわち生命を維持する力こそが神の力ではないだろうか。
それでもダメなら、もはや運命を受け入れるしかないのかもしれない。
救われないからといって、本当の信仰を捨てることはないのではないだろうか。
ところで、友人によると、その信者たちは、その後、2回もやってきて説教して帰ったそうだ。