自然界にはゴミはない

野山に行って、もしくは大海原、海岸に行って、ふと考えるのだが、自然界にはゴミはない。
川っぺりに放置されているゴミや、岸辺に浮かぶゴミは、すべて人間が生産したものである。

いや、そんなことはない、朝、玄関先を掃除していて集まる落ち葉はどうだ、と言うかもしれないが、あれだって、人間が勝手にゴミに指定しているだけで、もともとゴミではない。
その証拠に、自然界ではゴミ捨て場に置かなくても、放置していても落ち葉はなくなってしまう。

人間が勝手に作った不自然な生活環境(都会)が、その生活環境にじゃまになった物質を、勝手に「ゴミ」に指定しただけである。

では、なぜ人間社会にゴミが発生したのだろうか。
人間が大量に商品を生産し続けたために、その商品を不用品として捨てたものが、人間が作った町では自然界の分解が間に合わないために、溜まり続けた物がゴミである。

落ち葉は自然界では微生物や昆虫が分解して、土壌や肥料となる。ただし、自然のサイクルに従うので、人間界のスピードに間に合わないだけである。

都会のゴミは集めて燃やして、どこか都会から遠い、目につかないところへ埋める。
しかも、日本では大量に外国から原材料を輸入して商品を生産し、消費しているので、しまいにはゴミを燃やした灰で野山は埋め尽くされてしまうだろう。

足尾銅山鉱毒事件、という日本で初の公害事件があった。田中正造という人物がこの公害事件と戦ったのだが、その頃、まだ勝海舟が存命であった。
彼、海舟は、こう言ったそうである。

「あそこはむかしから銅を掘っていた。しかし、むかしは、ツルハシで、人間が、チョン、チョン、と掘っていた。それが、いまでは、大きな機械をフル回転させて大量に掘り出して、大量に処理して運搬している。そこが問題なんだよ」
と。

中国人観光客のマナーが悪い、などとよく苦情を聞くが、ほんのこのあいだまで、日本人は世界中で同じことを言われていた。
「ノーキョー」
という言葉まで海外で浸透していた。マナーが悪かったのである。いまでは世界でももっともマナーの良い国民になった。

彼ら中国人はゴミをそこらへんじゅうに捨てる。ひどい、という。
しかし、日本人だってそうだった。なぜなら、当時(50年前ぐらい?)は、ほとんどの日本人は都会育ちではなく、田舎育ちだったので、ゴミをゴミ箱に捨てる習慣など、なかったし、いなかにゴミ箱はない。
そこらへんにポイ捨てすれば、勝手に消滅していたのだ。
信じられない話だが、便所がない家まであった。そこらへんの野山や川で用を足していたのだ。

当然ながら、自浄作用のほとんどない都会は、災害に極端に弱い。

災害の多い昨今、国や自治体が定めた「法律」が復興を妨げているように思えてならない。
まず、倒壊した家屋などの「ゴミ」をその場で焼却することができない。どこかに集めて、運搬し、指定された処分場にまたトラックなどで運ぶ。
そして、焼却場で燃やすのだが、大きな災害でそんなもの、間に合うはずがない。近隣の処分場はフル回転である。費用も莫大にかかる。

さらに、現代の家財道具は、長持ちさせるため、大量に安価な製品を作るため、プラスチックなどの石油製品が多い。これらはほっておいてもなかなか腐らないし、燃やすとひどい悪臭がする。
住宅も、防火のために不燃物質が多くて、燃やせない。

また、さまざまな手続きのために、役所へ行って、申請しなければならない。

たとえが悪いが、もし、縄文時代のように原始に近い生活をしていたならば、災害は最小限であり、復興もあっという間だったろう。
文化生活、文明社会は生活はとても楽でいいものだが、災害にはきわめて弱い。

現代の物質社会だけを見てきたが、もしかしたら、現代社会は精神的にも、災害(外からの心的刺激)に弱いのではないか?

大量に消費される情報、商品、都会生活に合わせた生活習慣、法律。電気が発達して、夜、眠らない町がある。当然、人間も眠らない。
悪影響を与える外界からの心的刺激は多い。

これらの「災害」をストレス、などといっているのではないだろうか。
そして、そのストレスを軽減するために、さらに、その原因となりうる情報や商品を買い求める。
ついには、犯罪を犯して、そのストレスを消滅させようとする。

麻薬に手を出すのも、そういう原因があるのではないか。

いちど、原始的生活に戻ればどうだろう。縄文時代は無理でも、昭和初期ぐらいでいいのではないか?
ゆっくりとした自然サイクルの生活は大変かもしれない(便利ではない)が、かなり快適だろうと思う。

なにも、ぼくは、ストレスが悪い、などとは思っていない。むしろ、ある程度のストレスは人間には必要なものだと確信している。

ただ、便利すぎる文明が、処理しきれないゴミと、過剰なストレスを生み出したのだと思っている。