偶像崇拝は禁止されていた

偶像という言葉を辞書で調べると、「木石などで作った像」とある。
また、「神仏をかたどった、信仰の対象となる像」とも。

以前、聞いた話だが、宗教法人を作るとき、役所に申請を出すことになるが、「拝む対象」を記載しないといけないらしい。
で、別に拝む対象がない場合は、申請を通すため、適当に作っておくと。

偶像崇拝ということは、仏教、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教でも当初はきびしく禁止されていた。
でも、拝む対象がないと、求心力がない。特に、教祖亡き後は、求心力の低下が顕著になるゆえ、しかたなく、拝む対象が必要になるのだろう。

そして、仏教は、お釈迦さまが「少々は、教えを変えてもいい」と言い残していたので、だんだんと変化して、ついには仏像が作られたのだろう。当初は足跡とか菩提樹をシンボル(相応)として拝んでいた。人ではなく、菩提樹を「悟り」の象徴として、お釈迦様の足跡を「残された教え」として大事にしていた。
キリスト教も、当初はぶどうの木や実、十字架、パンとワイン、をシンボルとして拝んでいた。ぶどう=ぶどう酒=ワインを「イエスの教え」として、またパンも「イエスの教え=戒め」として象徴していた。

―――新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。
―――パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ

ところが、時代が下るにつれ、教団が大きくなり、より求心力を高めるため、教えの象徴としてのシンボルではなく、リーダーとしての、視覚的人物像が必要となった。
そうして、禁止されていたはずの偶像があらわれ、偶像崇拝にいたったのである。

これらのことは、いわばだれもが理解できる「偶像崇拝」であるが、ここではもっと突き詰めてみたい。

求心力はひとつに集中したほうがいいに決まっている。王様はひとりでいい。そうなると、王は一人、教祖は一人、神は一人がいいに決まっている。
そうなると、教祖(もしくは教祖とする人)を唯一神としてしまうか、教祖を唯一神と同化してしまうか、どちらかに落ち着くと思う。

そうして、イエスはキリストとなり、キリストは唯一神と同化した。そして、十字架に架かった人物を拝むことは唯一神を拝むのと同じということになった。
仏教でも、特定宗派では、その宗派の最高仏もしくは最高経典は、釈迦と同一視されることになる。

そして、偶像となったイエスと釈迦は、願い事をかなえてくれる、御利益のある神さまになったのである。

では、ユダヤ教徒やイスラム教はどうなのか。
ユダヤ教はエホバを唯一神として信仰していて、エホバのほかに神はない、としている。そして、エホバ自身の偶像はなく、絵もない。
イスラム教は、アッラーを唯一神としていて、偶像も絵も、マホメットの絵も禁止されている。

では、これらの宗教には偶像がないと言い切れるのだろうか。この「偶像」とは、物質的偶像ではなく、精神的偶像のことである。
ここからは、あくまでもぼく個人の考えであることをお断りしておく。

それらの宗教の唯一神の名前の由来は知らない。しかし、この唯一神に「名前を付けた」ことによって、すでに偶像化されている、とぼくは考える。
そして、彼らはその「唯一神から与えられた」根本経典を大事にして、偶像化しており、これを粗末にすることを絶対に許さない。先祖代々守っている貴重な聖典があるくらいなのだから。

実際に物質的な偶像はなくても、偶像と同じなのである。「人間とみなした」精神的偶像を拝み、彼らの先祖を作ってくれた神はいわば彼らの先祖なのである。
日本人のイザナギ、イザナミ以上のものである。

なにも、それがいけない、悪い、とは言っていない。ただ、偶像崇拝禁止といいながら、ちょっと違うんじゃないかと思う。それでいて、他の宗教の偶像を破壊する。

拝む神が違うからと、争うことはやめようではないか。

こんなことをいうと、また叱られるかもしれないが、唯一神なんだから、どれも、同じでしょう。だって、この世界の唯一神なんだから。2つあって唯一なんて変です。

一つの神、一人の神、自分たちが信じる唯一の神。
それに名前をつけた時点で、その神は偶像化された、とぼくは考える。

でも、この言葉を言うことがこわくて、誰も言わないんじゃないだろうか。報復をおそれて。

たとえば、小説に出てくる主人公には、視覚的人物像は与えられていない。
しかし、その人物に他と区別するための名称が与えられると、人物としての個性が与えられ、個人だけの役割が発生する。ロールモデルといってもいい。

田中という小説家と山田という小説家がいたとする。
田中先生は、ある村へ行ったとき、その村長と親しくなった。そして、家に帰ってから、その村長をモデルにした小説を書いた。彼はその人物に、江原、という名前を付けた。村長の名前を聞いていなかったからだ。

一方、山田先生も偶然、その村へ滞在して、その村長と親しくなり、これまた村長をモデルにした小説を書いた。村長は名乗らなかったので、山田先生は、荒井、という名前をつけてその小説を書き上げた。

その2つの小説は別々の時にベストセラーになり、多くの人々が江原、または荒井のファンになった。
それ以来、江原ファンと荒井ファンの間でどちらがいいかということで論争になり、敵対することとなった。
しかし、実は、江原も荒井も同一人物なのである。
その村長はひとりなのである。

ひとりの人物に個別の名称を与えたために、別人格が与えられてしまった悲劇であろう。
これを偶像化といわずして、なんであろうか。

名前を付けないために、ぶどうとか、パンとか、菩提樹とか、足跡(仏足)を「残してくれた教え」として大事にしていただけなのに。

モーセの十戒にこういうのがある。
「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない」
これは、神の名の尊厳、といわれるものだが、ぼくの思うに、名前で呼ぶな、という意味ではないかとひそかに考えている。
原文のヘブライ語(?)がわからないので、何とも言えないが、たぶん、そうだと思う。

たとえ、偶像がなくても、偶像崇拝はある。