体験するために生きている

「オマエの、その気持ち、よ~くわかるよ」と、TVドラマとかでは安易に人の気持ちがわかるかのように言っている。
しかし、じっさい、その人のその状態と同じにならないと、その気持ちなど、わかるものではない。
また、その人の気持ちは、時を経るにつれ、忘れて行ってしまう。

ひがむわけではないが、一般にお金持ちと呼ばれる人々は、さまざまな悩みをかかえていて、不眠の人がけっこう多いように聞く。特に、そういったお家のゼイタクそうな奥さんに多いのではないでしょうか。

われわれ(失礼)貧乏人からみると、それこそ、ゼイタク過ぎる悩みなのだが、よくよく観察してみると、彼ら彼女たちは本当に苦しんでいる。
たぶん、あれは、ぼくらにはわからない苦しみなのだろう。

思うに、裕福で、ラクそうにしている人たちのほとんどは、どうも楽ではないようだ。どうみても、一般庶民のほうがはるかにラクそうなのだ。

とにかく、精神的にかなり苦しいらしく、だから不眠とかストレスで体をこわしている。しかも、いつもカネがないとこぼしている人は、ほとんどの場合、さほど苦しくないのに、苦しいと思い込んでいる人がほとんどではないだろうか。

世の中に宣伝されている裕福な人たちの虚偽の生活を、商魂たくましい商売人たちに広告媒体で見せつけられて、自分と比較するから勝手に貧乏だと思い込んでいる。
確かに、ひどく窮乏している人はいるけれど、そうではない人もそう思い込んでいる。

また叱られるかもしれないが、貧乏だと思い込んでいる人たちのほうが、はるかに金持ちよりも気楽に楽しく過ごしているのである。

けっこう、幸せなのである。

腹ペコで、寒さにふるえて、また、暑さに耐えかね、虫に刺され、夜も眠れずに過ごしている貧乏人はむかしほどいないのではないか。
だからこそ、老人が長生きしているのではないか。

確かに、お金がなくて、働きづめで、年老いた親の世話をして、何のために生きているのかわからない、という人は多いし、苦しい。
でも、ぜいたくそうな生活をしている人だって、同じくらい苦しいのだと思う。

経験したことのない苦労は、決してわからない。

想像できるだけであって、それを理解したと思い込んでいるだけで、ほんとうに「わかる」ことなど、ないはずだ。

いじめられた経験のない人には、いじめられた気持ちがわからないだろう。

女性にモテない男は、モテる男がうらやましいが、たぶん、モテる男にはそれなりの苦しみがあるのだろう。ぼくにはまったく理解できないが。

おなじく、美人には美人の苦労があるはずだ。これは、わかる。美人にむらがる男にろくなのがいないのは、みんな知っている。
彼らは単に、美人を自分の飾りに使いたいだけなのだ。たぶん。

よく、学校で、「戦争について。命の大切さについて学ぶ」なんていって、道徳の学習時間(いまでもあるか?)に先生が教科書に沿って教えているが、そんなもの、教えられるものではない。もちろん、まったく教えないよりははるかにいいが、それでわかった気になるのはどうかと思う。

ただ、知識として記憶させるだけのもので、心の底から学ぶには、実際に体験する以外に、方法はない、とぼくは信じる。

だからこそ―――

本当に真理を求める人、神仏の心に触れようとする人は、人間社会において、人々と関わって、ともに苦楽をともにすることを選ぶはずである。

山に籠って修行したり、教会で祈り続ける生活も、たまには必要だが、ずっとそれだけでは、生きていると言えるのだろうか。

山奥で、座禅だけをしている仙人に、なにがわかるものか! そう言ってやれ!

独身で、自由人であることもいいかもしれない。
しかし、実際に家庭を持ち、ローンを組み、妻に小言を言われながら、子育てした経験のない人に、子供の大切さが理解できるはずがないのである。

「稼ぐことが大事。それが人間の値打ち。稼ぐ能力のないヤツはバカ。家庭はいらない。子供ができたら養育費を出してやればいい」

そういう言説をとるユーチューバーなる人種がたまにいるが、そんな連中に、日本人の家庭問題を語る資格など、ない。

人生は、バーチャルなゲームではない。

そういった「稼ぐ」連中に言ってやれ。「本当に、オマエは生きているのか!?」と!

この世において、生きる、ということ、生きる意味は、みずからが体験すること。
じぶんの体で経験するから、「体験」という。バーチャルなどではない。

人間は、人生を、体験するために生きている。

―――ぼくはそう信じています。