宗教心とは
人間はだれしも生まれつき、宗教心を持っている。
人間が生きる上で持っている、食欲や性欲と同じくらい、渇望するものである。
そのことを多くの人は忘れているのではないだろうか。
人は、宗教心なしには生きられない。
では、現代日本人には宗教心などないではないか、という人もいるだろう。
でも、そんなことはない。現代日本人はさまざまな宗教(みたいなもの)を信仰している。
もっとも多いのが「おカネ教」であろう。これはだれしもがうなずくことであろうと思う。
おカネ、マネーが大好きで、お金はあらゆる創造主であり、万能であると信じているし、実際何でもが商品化されている現状では、そう思わざるを得ない。
彼ら(わたしたち)は、お金のためには何でもする。
おそろしいほどの信仰心である。
もちろん、ぼくも嫌いではない。
もうひとつ、有力なのが、これまただれもが思う、「科学教」であろう。
この、科学、というのは、本来、「部分に分かれた学問」という意味だろうが、だいたいが物理学や化学、つまりは便利な新しい発明につながる研究である。
これは、お金になる。
どこかの総理大臣がおっしゃっていらっしゃったが、お金にならない研究には金を出さん、と。
まあ、そういうことだろう。
たとえば、自動車が動くのも、スマホが動作するのも、すべて科学の力だと信じている。
人類の叡知の結晶だと思っている。
そのなかの、一部というか多くは、まやかしか手品だとぼくは思っているが。
中学のころ、なんだか知らないが、電子工作にこっていたことがあった。
当時のことだから、真空管だとか抵抗器、コンデンサなどをハンダつけして真空管ラジオを作って喜んでいた。えらく高くついたが。
時代はすぐにトランジスタになり、トランジスタラジオの製作キットなるものを買ってきて、組み立ててみた。簡単だった。五球ラジオから五石ラジオになったわけだ。
それからトランジスタはICとかLSIになって、おもしろくなくなった。集積回路なんて、個人がいじれる構造ではなくなったのだ。
ちょうど現在の自動車と同じである。
作ってみて、ちゃんとラジオが鳴ることに感激したわけだけれども、どうして鳴るのだろう、なぜ電波をとらえて音声に変わるのだろう、と疑問に思った。
そこで、当時の雑誌(「ラジオの製作」とか「初歩のラジオ」なんて雑誌があった。いまのパソコン雑誌の前身である)を読んでみたり、奥田先生(?だったと思う)が書いた、「トランジスタ回路を設計する本」みたいなのを読んでみたりしたが、アホなぼくにはさっぱりわからなかった。
しかし、後年、なにかの雑誌か新聞で、そういう関連の記事を読んでようやく、納得した。理解した。
その記事は、その記事を書いた人が、電気回路を設計製作する人にいろいろ質問する、というもので、「じゃあ、その回路はどうして動作するんだ?」としつこく聞いたという。
すると、しまいには、
「そんなことはボクも知らないよ。ただ、こういう回路を手順に従って組んで、計算どおりの部品を使うと、こうなるのを知っているから、それを順番に組み合わせているだけだよ」
と答えたという。
なるほど、そういうことか、とようやく理解できた。
大多数の人は、誰か先人が発見した現象を利用して、何かの物体(多くは自然の石か液体から抽出したもの)を、これまた誰か先人が使った方法で組み合わせ、作り上げているだけなのだ。
コンピュータのチップがなんなのか、本当に知っている人など、ほとんどいない。ただ、インテルが入っているのをシッテイルだけなのだ。
世の中のすべてがこの調子である。会社で会計処理の仕事をされている方も、なぜ、この伝票処理をしなければいけないか、理論を詳細に知っている人など、ほとんどいないし、そんな必要はない。
すべて、先人の知識を信じているだけなのだ。これでうまくいっているからいいのだろうと信じているだけなのだ。ちがうだろうか。
しかも、そういう学説はしょっちゅう変わる。
ほんのこのあいだまで、アスベストはすばらしいものだ、といっていたのに、いつの間にかおそろしいシロモノといわれている。
以前は、煙突が煙を出すのを見て、いい眺めだ、といって喜んでいたのに、いまでは二酸化炭素が出る、けしからん、と言う。いまでは信じられない話だが。
子供のころ、日本人はカルシウムとタンパク質が足りないので、牛乳を飲め、といわれて、ウチでも毎朝、牛乳屋に家族分の牛乳を配達してもらって、無理して飲んでいたものだったが、いまでは日本人には牛乳は消化吸収されにくいなどといって飲まなくなった。
しまいには、牛乳にはカルシウムは少なく、脂肪が多すぎるからよくないなどという。
小学校の壁新聞には「パンにバターをぬって食べよう」などと、おおまじめに書いてあった。塩が多くて体に悪いからみそ汁を食うな、と。
タンパク質が足りない、ばかりいって、牛肉を食え、といっていたのに、いまでは体に悪い、コレステロールがたまるからといって、肉を食べない人が多くなってきたらしい。
話がちがうではないか。
そう、ぼくらは科学者や学者の言うことを信じていただけだった。
それが科学である。
その成り立ちと構造、人々の態度が、宗教とそっくりである。
科学は宗教と同じではないか?
ぼくらは信じていただけだったのだから。
日本人の信仰心はここに集中している。
初詣に行って、いちばんの願い事は、無病息災ではなく、「宝くじが当たりますように」だったような・・・
現代日本社会は「お金と科学教」を信仰している。
(注意:それが悪い、とは言っていません)
しかし、そんな時代だからこそ、日本人は本当の宗教を求めている。
お金教や、科学教ではない、霊的宗教を求めている。
それは当然であり、ゆえに新興宗教が起こり、理論的(?)な教義を作って、お金を集めている。
これでは、本当の宗教ではなく、お金教と同じではないか。
それでも、その新興宗教に人が集まる。寄ってくる。
思うに、彼ら信者は洗脳されているのではなく、洗脳されたがっているのではないか。腹立たしい現代科学と現代社会に背中を向けているのではないか。霊的世界を求めているのではないか。
世の人々はそういう新興宗教の信者の方々に、安易に、「おまえは洗脳されている」などと言えるものなのか?
そんな言葉を平気で他人に言える人は、自分で自分が見えているのだろうか。
信者の方々は、こう反論しないだろうか?「あなたたちこそが、洗脳されている」と。
ぼくは、こっちの意見も正解だと思う。
何度も言うように、お金教と科学教に洗脳されているのはほとんどの日本人なのだから。
そういう時代だからこそ、真の、霊的宗教が熱望されているのだと思う。