スウェデンボルグについての考察

「天界と地獄」という著作を読んでみて、疑問に思うことがある。
彼の言う、天界(Heaven)と地獄(Hell)という言葉の使い方に少し違和感を感じた。

言葉を使うときには、その言葉を厳密に(少々いい加減でも)定義することが必要だと思う。そうしないからいろいろなカン違いや思い違い、取りちがいが起こり、つまらない議論になってしまう。

【定義】
仏教でいうところの極楽とは、「阿弥陀仏の浄土。一切の苦悩がなく、平和安楽な世界」つまり、苦しみがない楽な世界ということ。
キリスト教、イスラム教での天国は、「神や天使が住むという世界。信者の死後の霊が神から永遠の祝福を受けて、苦しみなく、快適に永遠に暮らせるところ」
ということで、どちらも大差ない。

【定義】
対して地獄はというと、こっちはやたらくわしい。
仏教も、キリスト教、イスラム教も、ほとんど同じで、裁きを受けた罪人の霊は刑罰を受ける場所に送られて、永遠の(仏教は永遠でもないが、ほぼ永遠)刑罰を受ける。
舌を抜かれたり、切り刻まれたり、炎で焼かれたり、なんども悲惨である。

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これらをみてみると、別にどうしても天国へ行く必要はないように思えるが、地獄ゆきは全員、拒否するにちがいない。
ほかにも、お寺にある地獄絵とか、ダンテの神曲なんか、地獄の描写はおそろしいほどである。

しかし、スウェデンボルグの天界と地獄は、まったくちがう。まず、裁判官がいないし、罰を与える獄卒がいない。地獄の釜もない。刑罰もない。

よくよく考えてみると、スウェデンボルグは、冥界にある世界に、勝手に天界 Heaven 地獄 Hell と名づけているだけで、天国はどうか知らないが、地獄は定義によると厳密には地獄ではない。裁きは受けていないし、刑罰を受けているわけではない。ただ、同じような目にあうだけである。

いってみれば、地獄といわれる世界へ行った人たちに言わせると、たぶん、自分たちの世界が天国であって、天使たちのいる世界が地獄であるはずだ。
自分にとって、天国なのだから。

パチンコが好きな人にとっては、パチンコ屋は天国であり、つらい我慢を強いられる職場は地獄である。
仕事が大好きな中小企業の社長さんにとって、職場は天国だが、無駄遣いするパチンコ屋は地獄であるし、決して行かないであろう。
酒場で酒を飲むことが大好きな人にとって、酒場は天国だが、妻の買い物を待たされるデパートのブティックは地獄である。
酒が一滴も飲めない、酒嫌いの若い女性にとって、おしゃれなブティックは天国だが、エッチなオジサンがいっぱいいる酒場は地獄である。

だから、「天界と地獄」は、スウェデンボルグにとって都合よく天国と地獄を書いているだけで、彼のキリスト教の考えにもとづいている。ここの定義に基づくと、天国でも地獄でもなく、おのおのが勝手に集まっている霊界の町、もしくは国に過ぎない。

―――おそらく、独断でいわせてもらうなら、イスラム教の信者の方々はその信念にもとづいた彼らの「天国」、「地獄」へ行っているにちがいない。

さらに・・・ 永遠の天国という信念を持っているがゆえに、その世界に永遠にとどまり、そこで自分たちの幸福な世界を永遠に満喫するのだろう、と思う。地獄の人たちも、同じであると思う。自分たちの幸福を永遠に続けるのだろう。

ただ、信念どおり、本当に永遠なのかは、それこそ、神のみぞ知る。

結局、ふつうにみんなが想像している天国、地獄はない。すくなくとも、地獄は存在しない。すべてが天国と言えなくもない。

つまり、彼の言う死後の世界は、まるで大きな建物、ショッピングモールのような構造になっていて、1階のロビーから入り、ふつうの人たちが住んでいる人たち、そして、2階はキリスト教を信じている人たち、3階はもっとキリスト教を信じていて、その生活も敬虔な人たち、4階は、もっと純粋なこころの人たちがいる。

そして、地下1階には、ちょっと悪い心の人たちがいて、2階にはもっと悪い人たちがいて、地下3階には、最悪の人たちが、集まっている。

そういうことだろう。
お互いに交流がないだけで、類は友を呼ぶ、ということならこの世となんら変わらない。

この世には、天国も地獄もある。そして、みんな望んでそこへ行く。