スウェデンボルグの地獄界
精霊界、天界のつぎは、地獄界である。例によって、彼の著作「天界と地獄」(アルカナ出版)を参考にする。
なお、このサイトではスウェデンボルグと表記しているが、アルカナ出版の書籍ではエマヌエル・スウェーデンボルイと表記している。
地獄界は、天界とまったく逆の世界で、天界とのバランスをとるように、真逆の世界があるという。つまり、天界の集団とはまったく対極の集団が形作られていると。
大事なことは、だれかの裁きによって、罪を定められ、冥界の役人によって、地獄へ投げ込まれるのではなく、みずからの意志で、好んで、自分の所属するであろう地獄界へ落ちていく、ということ。
すなわち、「類は友を呼ぶ」の言葉通り、自分の望む場所へ、自分で行く、ということになる。
精霊界、という中間地点で純粋な自分自身に精製されたあと、包み隠すことのない、すべてをさらけ出した自分そのものになったゆえに、その自分に応じた世界へおもむく。
そこが、いわゆる「地獄」である、とスウェデンボルグはいう。
この地獄界を支配しているのは、神への愛と隣人愛との逆、すなわち、神への反逆心と、自己愛、だという。
地獄界にいる霊が好きなことは、みずから誇り高ぶること、他人を罰すること、復讐すること。
彼らには「役に立とう」という意志はなく、「どうして自分がそんなことしなければならないのだ」というなまけ心のみ。
世間の評判がほしくて、評判にならないことはいっさいしない。これを世間愛、と呼んでいる。
光を避け、闇を好む。暗い谷間の下や洞窟に住んでいる。
真の愛がない。あるのは、自己愛、世間愛。
そういう世界だというのです。
類は友を呼ぶ、という原理は、多くの疑問を解決するものだと思う。
たとえば、新約聖書、マタイによる福音書(第6章14)
「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう」
―――つまり、人を許さない人は、人を許さない人々の霊界の集団に所属することになるので、当然、お互いに許してもらえない人々と同居しなければならない。
同じく、(第7章1)
「人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう」
というのも納得できる。
すなわち、彼の言う「地獄」で、その人を裁くのは、父なる神ではなく、自分自身と同類の仲間、であるから。