魂はどこから
輪廻転生があるのかないのかという議論には、霊魂の発生が関係してくると思う。
霊魂、つまり霊というものがなんであるか。ここではこのように定義してみたい。
霊は、この世に生きているときは肉体とぴったりと合体して存在しており、人間が死亡したとき、その肉体を抜け出てしまい、基本的には霊の世界へと移動してしまうもの。
霊は、通常、人間の目にはとらえられず、不可視のもの。肉体とは違い、生命そのもので、生命エネルギー体とも言える存在。人間の意識の本体で、肉体、特に脳と連絡を取って、肉体の存続、運動をつかさどる。
霊は魂(スピリット)と呼ばれ、魂魄といって、2つの存在をまとめて表現することがある。
魂魄については、ここでは触れない。
さて、霊(ここでは魂と表現する)は、どこで誕生したのか。どこからやってきて、どこへ行くのか。
人間が誕生するとき、当然人間の両親から生まれる。父の精と母の卵が合わさり、すなわち父と母の遺伝子を受け継いで、母の体で、ある程度成長してから外界へと出てくる。
とすると、ごく自然な考えとして、肉体と同じように、父の魂と母の魂が合わさり、微妙な具合に混ぜ合わされて、子供の魂が形作られ、同様に生成された肉体と合わさって、誕生するのではないか。
もし、両親ではなく、まったくの単体から誕生するのなら、単なるコピーになるゆえ、2つの生命体から誕生するから新しい個性を持った生命体が誕生することになる。
つまり、魂は両親の魂から作られて誕生する、と考えることができる。
それならば、キリスト教やイスラム教のように、最後の審判ののち、天国か地獄へいって、そこで永遠に暮らす、という論理が成り立つ。この世で作られて、あの世へ行ったっきりになるわけだ。
「天界と地獄」の著者エマニュエル・スウェデンボルグの説はこのとおりである。
それでは、その両親のそのまた両親とたどっていくと、魂の根源はどこにあるのか。
それはわからない。人類の祖先がどこにあるのかがわからないのと同じであろう。生命の根源が神、というのなら、神が魂の最初の先祖であろう。たぶん、アダムとイブではないと思う。
日本の神社がたくさんにわかれているのは、説明がつくだろう。
魂というのは、炎と似ていて、肉体はろうそくのようなものと考えれば理解しやすい。
あるろうそくに灯っている火は、容易に別のろうそくに火をつけることができる。そうして、その炎は、いくらでも分けていくことができるし、合わせることもできる。
神社の神さまの「分霊」や、死亡者の「分骨」(=分霊)もそれで説明がつく。
魂はいくらでも分けることができるし、他人の魂とも合体することができる。
ちょっと想像しにくいことだが、いま生きている、ある個人の魂が、たったひとつだとは言い切れなくなる。もしかしたら、現在のこの世において、たとえばこの文章を読んでいるあなたの魂は、30個あって、別々の人生を生きている可能性がない、とは言い切れない。
魂が、両親の魂から生まれる、という説に反する説としては、魂ははじめから存在していて、よそからやってきて、人間の母体に宿り、その胎内の肉体と合体して誕生する、というもの。
そして、肉体が古くなったり、故障したりして使えなくなると、肉体から分離して、別の世界へ行く、ということになる。
これは、生まれ変わり、輪廻転生の説明がつく。
それでは、最初、この魂はどこからやってきたのか。あの世はそもそも魂でいっぱいだったのか。
そこで出てくる説が、人間の魂は、原初、宇宙からやってきた他の星の生命体だった、という考えである。
その宇宙人の生命体、つまり魂が地球の人間に転生してきて、地球人になり、死んでからはまた宇宙へ帰る、というもの。
最近、流行のスピリチュアルな考え方である。そのうち、これが主流になり、いつか、そう遠くない未来に、新しい宗教が生まれるのではないかと危惧している。
なぜ危惧しているかというと、その過程や結果が必ずしもよいものとは限らないから。
ぼくの恐れる、この新宗教はいわば、「宇宙人神話」として、インターネット上で広がってゆくのではないだろうか。他の宗教を滅ぼしながら。
いずれにせよ、魂が、どこかからやってきたのか、両親から誕生したのか、それについてはあらためて、考えてみたい。