念仏で極楽往生するか
念仏で極楽往生するか
夏目漱石の「吾輩は猫である」の最終場面では、あのネコが、死ぬまぎわに、
―――南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。ありがたや、ありがたや。
と言って、死んでしまう
それほど、日本人にとって、この念仏というやつはなじみ深い。
ぼくも、お化けが出た! と思い込んだときは、思わず、
なんまいだ、なんまいだー!
と思わず念仏を唱えた。自分でもびっくりした。念仏、唱えちゃうんだ、と。
南無阿弥陀仏と阿弥陀如来を念じて唱えれば、だれでも成仏できる、ぐらいの知識しかないが、これほど、日本人の心に深く刻まれたワードはないのではないでしょうか。
「悪人正機」という言葉があって、善人が救われるんだから、いわんや悪人が救われないことないだろう、みたいな意味ととらえられている。
正直言って、くわしくは知らないから偉そうなことは言えない。が、言説通りに受け取ると、それはちょっと変だと思う。
単純に、善人が極楽(天国)に行くんなら、悪人が行けないはずがない、という意味にとらえる。
おそらく、善人が救われるんなら、「改心した」悪人は当然行けるはず、という意味だと思われる。それ以外、考えられない。
現代の日本社会において、この「念仏を唱えれば、極楽往生できる」という言説をそのまま信じることはむずかしい。まず、小さいころからの教育がまったく、むかしと違っている。
平安時代、鎌倉時代と、仏教はいまでいう上流階級、エリートたちだけに独占されていたと思われる。現代でいう、物理化学の博士みたいな立ち位置だったのだろうと思う。
つまり、むずかしくて、われら庶民にはわけがわからなかったのではないでしょうか。
庶民にとって、おおきな伽藍に住んで、ぜいたくなお召し物を着て、和歌を歌って生活している貴族や武士を見て、自分には手が届かない、当時の仏教はそんなもんだったのではないでしょうか。
当然、極楽とやらへ行く方法も、わからない。お経を読んでもらっても、漢文だから何のことかまったくわからないし、聞かされるお説教もむずかしい。
そんな仏教は、ただ庶民には、極楽と地獄を、仏像や絵で教えられるだけで、おそろしくも不安な教えだったのでしょう。
つまり、仏教は上流階級で独占していて、庶民は地獄のおそろしさを知らされるのみ。
そう想像します。
そんな折に、念仏を唱えれば、地獄へ行かなくてすむ、という教えがあれば、やはり、われら庶民なら、飛びつくでしょう。
現代のぼくら日本人なら、念仏を唱えれば誰でも極楽へ行けるなんて、そんなわけあるか、という意見も当然にように思えるのですが、やはり、時代が違う。
やはり、当時としては、「極楽へ行ける」というよりも、「地獄へ行きたくない」という欲求が強かったのではないかと思えるのです。
さまざまな、冥界旅行者、臨死体験者、生まれ変わったという人、そういう人々の話を総合すると、どうやら仏教でいうところの、地獄も極楽もない。
おのおのが、似た者どうし、同じ心情を持った人々が集まって、町や国を作っているという。
それならば―――
念仏修業者、念仏信奉者も同じ人々で集まって、国を作っているとしてもおかしくない。
だから、その人たちの「極楽」は存在するのだと思われるのです。たとえ地獄がなくても。
それは、まちがいないでしょう。