スウェデンボルグの精霊界

80年代、昭和の終り頃だったと思うが、当時の有名俳優、丹波哲郎氏によって広められた、当時の新しい「あの世」のイメージのいわば元ネタである、スウェデンボルグの「霊界からの手記」という本があった。続編と、姉妹編の3冊セットだった。

この本の、そのまた元になったのが、"HEAVEN AND ITS WONDERS AND HELL" という本で、アルカナ出版などから同じころ、発売されていた。ラテン語原典より翻訳。初版、1758年。

スウェデンボルグは、敬虔なクリスチャンで、徹頭徹尾、キリスト信仰を基準にしている。
ちょっと、ぼくら日本人にはついていけない感があるが、それはそれで当然だろうと思う。

彼は、当時のキリスト教会を痛烈に批判して、問題を起こしたこともあった。

これらの著作を読んてみて、どうしてもスウェデンボルグが口からデマカセを言っているようには思えない。彼の言葉は信ずるに足ると、ぼくは思う。

彼は、生きながら、自分の霊体を肉体から離し、霊界へと旅を続けて、その様子を克明に記録した。
そこで、彼の著作から、その哲学から、重要と思えるところを考察したい。

・霊たちは、想念の交通によって、コミュニケーションをとっている。そして、この手段は、どんなに遠くにいても、まったく関係なく行われる。

・死んだ人間には、「導きの霊」がやってきて、霊界への道案内をしてくれる。

・案内によって、本格的な霊界へ入るための、準備段階として、あの世とこの世の中間地帯のような霊界=精霊界 へと行くことになる。

・精霊界は、この世とまったく同じ風景をしている。町も村も建物も、川も山も、海も、田畑もある。

・精霊は、生前の人間とまったく同じ外観をしている。

・この「準備期間」の霊界での滞在期間は、早くて1週間、いちばん遅くても、30年だという。

「人は世間にあるうちは、道徳、法律、礼儀、他人への顧慮、習慣、それに打算など網の目のような外面的なものにしばられ、あるいは知識のような表面的な記憶にわざわいされている。しかし、霊界ではこんなものはすべて不要なばかりか、じゃまなものに過ぎない。これを少しずつ捨て、霊の元の姿に帰るために精霊界はあるのである。」(霊界からの手記・本文より)

そして、この精霊界は、霊界(冥界)をひとつのショッピングモールのようなビルにたとえると、ちょうど入口から入ってすぐの、ロビーのようなところ、と言えそうだ。
地下3階、地上4階のビルの1階部分が精霊界。
そして、あとの霊界は、上の2~4階のの3つのフロアが天界で、地下の1~3階が地獄、ということになる。

純粋な霊に、いわば飾りっ気のない純粋な自分に「精製」されたあと、各自の霊界へと振り分けられる、というか道が開けて、自身で旅立つことになるという。

悪人は、本来の凶悪な人間に、善い人は、純粋な善人になってしまう、という。

ここで、重要なことは、純粋な自分になる、ということだ。そして、意思の疎通はいわば、テレパシーで行われる。

また、「死んでから再教育によって、改心して、悔い改めることはできない。生きているうちでないと、こころを入れ替えることはできない」という。

他の幽体離脱の体験者には、ちょっと違う体験も多いのだが、この精霊界はふつうにある、「あの世」のことなのかもしれない。

ところで、誰もが考えることだろうが、地獄へ行きたくない、天国へ行くにはどうしたらよいか、ということだろう。

スウェデンボルグによると、こういうことになる。。

ふつうにいわれる、宗教的な絵画にあるような、天国、地獄はない、ということ。地獄には紅蓮地獄も針の山もない。炎で焼かれることもなく、舌を抜かれることもない。また、のんびりと花を摘んで遊んで生活しているような、また美女が酌してくれて酒を飲むような天国極楽はないということ。

そして、天界へ行く資格を手に入れるには、

「この世で、シッカリ地についた生活を営み、仕事や職務に精をだし、道徳的、市民的生活をとおして、霊的なものをうけがう(ママ)ことです。」(天界と地獄より)

彼は、「神の真理と隣人愛に生きる」ことが大事と主張する。教会へ行って一生懸命に天国へ行けるように祈ることよりも、そちらのほうが、大事だと力説する。

「隣人愛の生活とは、みずからの職務と仕事と行いとを、万事正しく誠実に、しかも内部から、つまり天界を起源として行っていくことです。」(天界と地獄より)


ここで、ぼくが強く主張したいのは、

―――行いをする
ということ。
これは、すべての冥界旅行者が、共通して主張していることで、この世、顕界、つまり現世においては、行動して体験することが、とても重要だということ。

考えているだけ、思っているだけ、夢見ているだけでは、まったく無意味で、霊的には、何も残らないということ。

―――この世は、人生は、体験するために、人は生きている。
といえるのではないだろうか。