大戦争は発明が引き起こした

第一次世界大戦、第二次世界大戦は、便利で優秀な発明品が引き起こしたのではないだろうか。

戦争が起きたから、最新の武器が発明されたのではなく、最新の発明があったから、戦争が起こり、その発明品が活用されたのではないだろうか。

海外へ自由に軍艦が出てゆけるようになったから、イギリスは当時、世界中を支配しようとしたのではないだろうか。
世界を支配するために船を作ったのではない。船があったから、支配しようとした。

発明は仕事を奪う。

高性能で、使いやすい銃が発明されたから、武士や騎士階級がなくなったのである。カラシニコフが武術を役立たずにしてしまったのだ。

自動小銃があれば、幼いころから武術を鍛錬する必要はない。自動小銃の扱いなど、不器用な人間でも数ヵ月で可能だろう。

だからこそ、一般市民が戦闘員として戦地に送られたのである。

もし、高性能な銃が発明されていなければ、徴兵制はなかったのではないか。
爆弾が発明されていなければ、空襲によって(いまは空爆というらしい)何十万人もの人々が殺されることはなかったはずである。

いま、現状を見てみると、―――

戦争というより、科学者同士による、発明合戦である。
その発明によって、戦争の勝敗が決まる。これからはコンピュータの計算、AI・人工知能によって、事前に戦争の勝敗がかなり予測できるだろう。

ただし、あくまでも予測だが。

では、なぜいまも戦争が続いているのだろうかk。

ぼくは思う。あれは、お互いの武器の性能を試すための「実験」ではないだろうか。
あるいは、性能を見せるための「見本市」ではないだろうか。

いろいろな状況を見ていると、そんな気がしてならない。

しかも、その実験はあくまでも「お古」つまり、不要な中古品ではないか? 最新の秘密兵器を見本市に出すわけがない。

いちばん大事な宝物は、いつもこっそり隠されている。

で、なんとか連合とか、なんとか機構などという、国が集まった団体が、自分以外の国で、試し撃ちしているのではないか。そして、その武器を、その他の国へ高く売りさばくために売り込みをしているのではあるまいか。

すなわち、発明品の見本市ではないか? 戦争自体が、大きな経済効果のあるイベントなのではないか?

なぜなら、現況では、本気の、国の命運をかけての、決死の戦争など、起こすことはできないような気がするからである。
振り上げたこぶしを、本気で振り下ろすことはできない。

国破れて山河在り、ではなく、山河も人類も、吹っ飛んでしまうだろうから。

世界は日々、進歩している。新技術は次々と開発されている。
いま、新幹線に乗って移動しているサラリーマンは、いまさら駕籠に乗って東海道を行き来することはできない。
忠臣蔵の時代ではないのである。

たまに、楽しみで、東海道を歩く人はいるだろうが、まず、駕籠に乗る人はいない。
もはや、駕籠も、駕籠かきもいないのだから。
核兵器に弓矢で対抗する人はいない。

しかし、ボクシングを練習する人はいるし、弓矢を稽古する人もいる。あくまで、スポーツ、武道、訓練、もしくは娯楽としているのである。

ひとつの現代の「産業」として、残っているだけだ。

兵器の発明合戦に負ければ、主導権を握られ、下手すれば、国が滅ぶ。
ゆえに、この発明合戦は永遠に終わることはないのかもしれない。

戦争は金がかかる。いまもむかしも同じであるが、むかしといまとでは、かかる金額のケタが違う。おそろしく高価な武器。たいへんな費用がかかる。しかも、石油と鉄を大量に消費する。
だから、商人と科学者が戦争しているようなものではないか? 戦闘員はゲームのキャラクターのように使われているのではないか。

もはや、あともどりはできないのである。

われら庶民の、人生の、苦しみの大きな原因もここにある、と思う。