発明は人間を苦しめる

ぼくが小さいころ、戦争に負けた原因は、その極端な精神論であって、科学をないがしろにしたせいだ、ということで、偉人といえば、発明王、エジソンである。
当時の偉人の伝記といえば、必ずエジソンが筆頭に上がる。

「エジソンは、えらいひと」

ちびまる子ちゃんの歌のとおりだ。

日本は科学技術を伸ばし、発明家を育てよ、ということだったらしい。

その異常なまでの科学技術への信仰は、本来の日本人が持っていた信仰をも駆逐してしまったのかもしれない。
発明はよいもの、暮らしを豊かにし、仕事が楽になる。
そう信じ込まされてきた。

しかし、はたして、そうなのか。

実は、現代において、便利な発明、優秀な発明というものは、すべて人間を苦しめるものである、とぼくは思う。

すばらしい発明があらわれると、我々の生活はよりいっそう苦しくなる。―――ここでいう、すばらしい発明というのは、過剰に便利さを追求したものをいう。

はだしに履く「靴」はいいが、自動車や飛行機は発明だといえる。

その発明によって、得をする人は、ほんの一部に限られる。しかも、その得をした人もしまいには苦しむことになる。

「発明は、悪である」

ぼくはそう信じて疑わない。

人類の最大の不幸は、産業革命から始まったのだと思う。
商品が過剰に生産され、恐慌が起こる。

恐慌というのは、科学技術、つまり大量生産できる発明によって作られた多すぎる商品が売れ残って、生産がストップすることをいう。
チャップリンの「モダンタイムス」という映画で見た。

過剰な商品の販売先を求めて、他国に売り込むため、戦争が起こった。

この現象は、いまも続いていて、現在のアメリカ合衆国と中国とのいさかいも、それがいちばんの、というか、それだけが原因である。

この、関税問題というのも、発明によって過剰に生産された商品が生み出した現象である。

イギリス帝国主義というのは、そうして起こったのだと確か、歴史の授業で習った。
帝国主義、というのは、王様主義、じゃなくて、商人主義、といったほうがいいんじゃないだろうか。

また、商品を大量に生産するために、農地の奴隷を、工場の賃金労働者に追い立て、各地で「革命」という名の、農業主義から商業主義への変革が起こった。
たぶん、それがフランス革命であり、南北戦争(the civil war)だったはず。(ちょっとあいまいで、すみません)
子供のころに無理に読まされた「トムおじさんの小屋」なんか、今思うと、プロパガンダだったんだな、と思う。

そんなことはさておき。

発明は、いろんな仕事を奪ってきた。特に、単純労働がなくなって、障がい者の仕事が激減して、困ってしまったのである。
ポンプが発明されて、水汲みの仕事がなくなったのだ。
農業機械の発達が、百姓の仕事を奪い、織機や工場機械が職人の仕事を奪った。

近年では、パソコンがタイピストの仕事を失くしたし、ソロバン技術は、ほとんど無意味になった。

あとは、工場経営者と商人が残り、余った人のために新たに商品を作らねばならず、その商品を動かす仕事を作った。
それが娯楽産業であり、本来、不要な仕事であるはずだ。
考えてみてほしい、いま、いちばん儲かるのは娯楽産業であって、穀物生産ではない。

しかし、政府や商人たちは農産物を買い占めて、みずからの富を増大させるためにも、さまざまな不要な仕事を作らざるをえなくなったのであろうと思う。
だから、現代社会において、労働は苦痛なことになったのだといえる。

さまざまな発明が生産を効率化させ、仕事をつまらなくしてしまったのだ。

つまらない仕事をさせられ続けると、ストレスがたまる。
そのストレス解消のために、お金を払っていろんな娯楽を必要とする。

現代人の多くは、生きるためではなく、娯楽をするために仕事をしているのではないだろうか。

歴史的にみても、こんなに娯楽があった時代はない。
ちょっとまえ、ぼくの父の世代までは、テレビも、映画もなかった。電気すら来ていなかった。電気冷蔵庫もなかった。
ぼくの小さいころにさえ、電話もなかったし、テレビも、クーラーもなかったし、自動車を持っているのは金持ちだけだった。ストーブは石炭ストーブで、ガスはプロパンだった。急な連絡は電報。でも、なぜかAMラジオはあった。

聞くところによると、戦前の世代は案外、のんびりしていたようだ。戦後世代のサラリーマンを「モーレツ社員」などと言って、驚いていたのだから。
いまは、昭和百年などといっているが、ぼくらのころは、明治百年、「明治は遠くなりにけり」などといっていた。

ところが、便利な発明が、世の中をいそがしくしてしまったのだ。
便利な機械が発明されても、楽をできるのは初期のころだけである。

よく、新発明の機械を「もっと値が下がってから購入する」などという人がいるが、そのころにはもう、遅いのである。だって、みんな持っているから、その便利さの恩恵にあずかれるわけがない。

誰も持っていないときに、活用してこそ、値打ちがあるのだ。

最近、電動自転車というものが発明され、おもに主婦に喜ばれている。坂道の多い地域に住んでいる女性たちには、特に喜ばれているだろう。

しかし、目先の利く商人がこれを見逃すはずがない。
運送業者はこれに目をつけて、むかしのように、この自転車にリヤカー(!)をつけて、荷物を運ばせる仕事を生み出した。

これなら、運転免許はいらないし、駐車違反で切符を切られることもない。保険もいらない。入っても安いものだ。ガソリンもいらないし、車検もない。車庫も小さくてすむ。
―――というわけで、大きなリヤカーに荷物を満載して、急な坂道を、電動自転車でのぼってくる方々を見かけるようになった。

便利になれば、それ以上の仕事をさせられるのだ。

また、パワーショベルという機械が発明され、つらい土方仕事から解放されたが、とんでもない量の土砂を掘削するようになり、その大規模土木工事のために自然破壊が進み、災害が起きやすくなっていることは否めないだろう。
手でぼちぼち掘っていた時代には考えられないことだ。

これも発明がもたらした弊害である。

過剰に便利な機械が発明されれば、それ以上の仕事量が要求され、大量の、大規模な仕事が要求されるようになってしまうのである。しかも少人数でするから、庶民への経済効果は少ない。

庶民への経済効果が少ないと、商品を買う人がいなくなる。
しまいには、政府が庶民にお金を配らざるを得ない時代が来るかもしれない。

最近、話題になっている、「AI技術」、は、どれほどの仕事を奪うだろう―――

「発明は悪である」

それは、ぼくの持論である。