もっとも善い人間とは

もっとも悪い人間を考察したあとで、もっとも善い人間とはどういうものか、考えてみたい。

ここでいう、「いいひと」というのは、一般的にいう、「自分にとって」いい人のことではない。

よくこういうことをいう人がいる。

―――あの人は、わたしが困っているときに助けてくれた。だからいい人だ。
とか、

あの人は、わたしが入院しているときにお見舞いに来てくれた。だからいい人だ。葬式に来てくれた、だからいい人だ。
「このお金で遊びなさい」といってたくさんのおこづかいをくれた。だからいい人だ。(下世話な例だが)いい女を紹介してくれた。だからいい人だ。
仕事の最中に、差し入れで、おいしいお菓子をたくさん買ってきてくれた。だからいい人だ。

こういうのは、なし、である。

この人たちは、自分を喜ばせてくれたが、その人たちが、善人かどうかは別である。むしろそういうことをやたらにする人は、むしろ、他人の歓心を買いたい場合が多い。

有権者のいる選挙区で、やたらに政治家がすることである。

本当にいい人は、きびしいことも言うので、嫌われることもある。しかも本当にいい人は嫌われてもいいので、その人のためになることを言うことが多い。
親というものは、だからこそ、口うるさいのである。

ここのところをカン違いしている人があまりにも多いと思う。

しかたないかなとも思う。

要するに、現代社会においては、自分を儲けさせてくれる人、お金になる人がもっともいい人で、自分に損させる人、お金を減らす人がいちばんイヤなやつである。

だから、かなりの悪人でも、儲けさせてくれる人は、イイ人といわれる。悪い人だとは、なかなか言えるものではない。
善悪が逆転している。

いまの日本人は、だから、オカシクなってしまっている。

たまに、「あいつは悪いヤツだ!」と突然、儲けさせてくれていた人を糾弾する場面があるが、多くの場合、その人が儲けさせてくれなくなって、損させるようになったからである。

もしくは、商売ガタキが仕掛けたワナである。利益を奪うのが目的である。

来る日も来る日もテレビもインターネットも、そういう不毛な争いを報道している。

そういうのは、ひとまず置いておいて、本当の意味での善人、悪人について考えたい。


地上で、もっとも悪い人間を、このように考えてみたことがある。

―――彼は、全国民をだまし、国王を殺し、違法にもその王座につく。
彼自身はまったく神など信じていないのに、人々の前では神を敬い、人々に善政を敷いているように見せかけているが、実は人民を限りなくしいたげている。

そして、自分の犯罪はすべて政敵のしわざにして、罪をなすりつけ、殺す。
他人の財産をことごとく不正に手に入れ、まったく人に知られることなく、私腹を肥やし、自分に反対するものはすべてこっそりと、もしくは合法的に処刑する。

国中の富をすべて手に入れ、権力をすべて手にして、王として、独裁者として君臨する。

さらに、すべての人に尊敬され、愛され、敬愛され、英雄として名を残し、不正と残虐の限りを尽くし、すばらしい長寿をまっとうする。
そして、死してもそののちもその名声を永遠に残す―――


これが最悪なのだから、最善は、これの真逆を考えてみるといいだろう。

―――彼は、つねに真実を語り、誰をもだましたことがない。法を守り、その地位を失う。
彼は神を敬愛し、信仰しているのに、神を冒瀆している、と糾弾される。

彼はみなに憎まれているが、いつも人々のためにつくしている。

嫌われてもいいので、人々に善い行為を教え、実践させる。

彼は、国王に罪をなすりつけられ、財産も地位もすべて奪われ、すべての人権をも奪われ、逮捕され、牢屋に入れられる。
裁判にかけられ、すべての人に憎まれ、笑われ、神を冒瀆していると言われ、違法に処刑される。さらに、死後は希代の悪人もしくは奇人として名を残す。


どうだろう。これに近い、というか、ほぼそういう人生を送った人を、二人、知っているだろう。

そういうわけで、ナザレ人イエスは神の子と呼ばれるようになり、ソクラテスは哲学の祖・人類の教師といわれるようになったのだろうと思う。