人は何のために生きるのか
このサイトを始めるにあたって、
―――「死後の世界」を考察し、現代社会において、 どのように生きてゆくのかを考察します。
という目標をかかげていたのであるが、この調子だと1年後になっても、その答えに達することがむずかしいと思えてきた。
この「何のために生きるのか」というテーマの書籍はよく売れるらしく、同じようなタイトルの本がたくさん見受けられる。
少し前、「君たちはどう生きるか」という本がベストセラーになっていた。なんだか深刻そうなこわい顔の少年の絵が表紙だった。この本を読んでいないので、内容に関してはなんともいえない。
かくいうぼくも、若いころは、人は何のために生きるのかと疑問に思っていて、ちまたにあふれる幸福論の本など、片っぱしから読んだものだった。どれもよく内容は覚えていない。ショーペンハウアーという人の短編集だけはなんだか感銘したことだけ覚えている。
ただし、そんなことをしていたのはけっこうな年齢になってからのことで、十代の頃は、そんなこと考えていなかった。おもしろそうなことをするのに、忙しかったのである。
正直、テレビとマンガに忙しかったのである。あと、音楽と。
結局、当時はわからなかった。いまでもハッキリと人さまにずけずけ言えるものではない。
なぜなら、その人それ自身の考え方でいいと思うからだ。
誰だって、結局そう思うだろう。
「何のために生きるかは、その人自身が決めること」と。
でも、あえて、迷っている人のために言うならば、
「人は、生きるために生きるのです」
これが答えです。
これは、ぼくが冥界の研究をした結果、到達した答えです。もう、先に答えを言っちゃいます。
なんだか、生きるために生きるとは、ヘンな言い分だと思われるだろうが、たとえ話をしてみよう。すこし、ニュアンスが違うかもしれないが、わかっていただけると思う。
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ある人が、食堂へ昼食を食べるために入った。昼時なので、多くの人が並んでいたが、なんとか間に合って、食券を買うことができた。その人は、きつねうどんを食べることにして、食券を買った。他の人の中にはカツ丼の食券を買っている人もいた。
ある人はちょっと太り気味なので、カロリー控えめにした。それにきつねうどんが食べたかったのだ。
中に入って、座席で待っていると、他の人たちは思い思いに、いろんな食事をしてる。
きつねうどんが運ばれてきて、その人は、それを食べだした。
となりの席の人は、カレーライスを食べていたのだが、いまさらきつねうどんをカレーライスに変えるわけにもいかず、きつねうどんを食べ続けた。カレーのほうがよかったかも、と思いながら。
となりの人は、カレーライスを完食せずに、残して出て行った。なんとももったいない。
そして、ある人はきつねうどんを完食して、その食堂を出て行った。
おなかはほどよく満たされ、満足した。
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この人は、昼食を食べるために、昼食を食べていたのである。昼食にきつねうどんを選んだので、きつねうどんを食べたのである。
人は、その人生を生きるために、生まれてきて、生きて、死んでゆくのです。
お揚げが乗っただけのうどんといえども、よそ見をせず、その風味を味わいながら、その栄養をきっちりと、めん類なのによく噛んで、食べるのです。
だらだら食べて、こぼしたり、残したりすることは、もったいない。
そうすると、そのうどんの、見た目のよさも、風味も、味も、栄養も、その人にきっちり取り込まれるのです。
そう思います。