神仏の存在意義
よく言われることだが、「思い」と 「想い」の違いについて。
先日、超能力少年だった清田くんのYouTubeを見て、なるほどと思った。
人が、ひとり心に巡らせる感情や想像を「思い」と書く。田んぼの下に心と書く。ちなみに、田んぼの下に力と書いてオトコと読む。
「現在」という時間空間に、この思いを集中させて、エネルギーを凝縮させると小さな玉のようになり、そのカタマリを「念」と呼ぶ。「今」という字の下に、「心」と書く。
その思いを、他の誰かに伝えると、この世界に現実に存在することになり、おたがいの心に生ずるので「想い」になる。相手がいるのだから。伝えるためには言葉が必要で、ここで言霊があらわれる。
おそらく、言霊というのは、思いのかたまりであって、念であって、この念のパワーを念力というのだろう。
相互に存在する想い、それが何かの希望であると、それは「願い」になる。
新約聖書、マタイによる福音書に、このような節がある。
――よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえてくださるであろう。
どういった意味かは各自が解釈してください。
この「願い」を現実社会に実現するためには、個人の努力には限界があるであろうし、願いを実現されるように、現実社会、つまりこの世に変化を求める。
そのためには特殊な能力が必要なわけで、全知全能の存在が求められる。そこで、唯一神がでてくる。
人々は唯一神に念を固めて送りつける。このことを「祈る」という。
唯一神がいない場合は、この世に働きかける能力のある特別な存在に仲介を頼む。
それが、日本における神々であり、諸仏であるわけだ。
それぞれ、その神仏には得意の分野の能力があり、その願いによって神仏を選ぶことになる。たとえば、学問の神さまとか、安産の神さま、仏さま。
そして、神仏に祈る。
そして、その祈りは受け入れられ、願いが叶う。それを「祈りが通ずる」という。却下されずに、念が受け入れられ、宇宙に働きかけてくれて、現実となったのである。
願いが叶う事例はよく起こる。だから、よく願いが叶う神社仏閣は繁盛している。あまりだめなところはやはり現実の商店と同じく、人気がなくなって消滅していっているのが現実だ。
現実を長年、よく観察していると、自分の体験も含めて、神仏に願いは通ずるようだ。そうすると、唯一神がいるか、仲介役の神仏がいるか、どちらにせよ、存在を認めざるを得ない。