神という言葉について
そもそも、あらゆる宗教の争い、民族の争いの元となっているのは、やはり「神」についての見解の相違であろう。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教でいう「神」は、日本人が日本語で表現する「神さま」とはかなり違う感じがする。
それを混同してしまっているので、わけがわからなくなってしまうのだ。
多くの、というか、大部分の日本人はバイブル(聖書)を読んだことがないので、いまひとつ、ピンとこないのだと思う。
そもそも、バイブルを聖書と翻訳した時点でなんとも違和感を持つ。それは別の機会に述べるとして、聖書に登場する「エホバ」と神社の祠に祀られている「お稲荷さん」とでは、比べようもないくらい別個のものにちがいない。
それをどちらも「神さま」と呼びならわしているので齟齬が起こる。
まず、言葉を使うのには、法律用語や契約書ではないが、言葉の厳格な定義が必要だろう。
西洋の文化圏で扱う「ドラゴン」と、東洋の「龍」を、どちらも「リュウ」と表現するからなんだかおかしくなる。ドラゴンは悪者で、龍はそれこそ、神さまのひとりであるから。
円、つまりサークルを定義するにはこうなるだろう。
―― 平面上で、一点から等しい距離を取りながら動く軌跡。
このように言葉を定義してから使えば、間違いや争いが少なくなるだろうと思う。
では、「神」とはなんぞや?
大きく分けて2つあるだろう。
・神はひとり。
・神はたくさんいる。
常識的過ぎて申し訳ないが、ここは大事なので書いておかねばならない。
1神教と多神教ではあまりにも違うので、同じ言葉「神」を使う限り、永遠に争いはなくならないと思う。
さらに、名称の問題がある。
たとえ話をする。
ある村に、Tシャツに半パンの男がやってきて、自分は田中だと名乗った。そして、井戸を掘ってくれた。アイスクリームを食べて、うまい、と言った。
またあるとき、ある村に、ジャンパーとブーツをはいた男がやってきて、自分は一郎だと名乗った。そして、井戸を掘ってくれた。焼き芋を食べて、うまいと言った。
この二つの村では、この男に感謝して石像を建てて、感謝した。
この偉大な男の存在を、この二つの村の人は同じ人(田中一郎)であるにかかわらず、絶対に違う人だと言って認めなかった。
なぜなら、服装も、名前も、好きな食べ物も、すべて違うものだったからだ。
でも、実は同じ人物で、違う名前をかたっただけだったのだ。
また、逆の場合もあるだろう。違う人物であったにもかかわらず、同一人物として認識される場合がそうである。
そういったもろもろの見解の違いが、大きな紛争のタネになり、多くの人命が失われることになるのだろうと思う。