「自分教」

「自分教」

ぼくは元々、小さな頃から不思議なこと、神通力、超能力などが好きで、物心ついた頃にはもう死後の世界について興味を持っていた。

父が毎月購読していた「世界名作文学全集」みたいなものの「日本編」に収録されていた、日本霊異記や、今昔物語なんかが大好きで、愛読していた。あとから聞くと、あれはぼくのために父が購読を申し込んでくれていたらしいが、気に入ったものしか読まなかった。

そうして、自然に仏像や仏教へと興味が移り、中学のころには大作「西遊記」を何度も読んで、道教、仏教についてとても興味を持った。みうらじゅん氏のように、仏像オタクで、仏の名前や菩薩の名前など、小学館のカラーブックスの「仏像」という本を買ってきて、よく知っていた。

その西遊記は、原作を忠実に翻訳したものだったので、そのなかに玄奘が仙人から伝授された般若心経が読みがな付きで掲載されており、その当時その経文をすべて暗記していた。いまでもほとんど思い出せる。何の役にも立っていないが。ちなみに、寿限無の名前もなぜか暗記していた。そのくせ、学校の成績は良くなかった。

そして、われらの世代の教育装置、週刊マンガ雑誌によって知った「うしろの百太郎」には本当に驚いた。現在盛んに使われる「守護霊」という言葉や「背後霊」などという言葉はあのマンガが世に広めたのだろうと思う。
さらにテレビ番組で直接生放送でみた、ユリゲラーのスプーン曲げの超能力には興奮した。同じく漫画アニメのバビル二世ほどではないが、すごい能力だと思った。「超能力」という言葉を広めたのはこの番組だと思う。ただし、自分のスプーンはまったく曲がらなかったが。

そうして、ぼくの世代の似たような人間はオカルトに傾斜していったわけである。

けっこうな老人になったであろう今に至るまで、不思議なこと、自らの体験もあり、宗教観、世界観というものが、ぼくのなかで形成されていったのである。

そして今、自分の宗教というものを記しておこうと思う。なぜかというと、人は、心に秘めていただけでは、それはこの世界に、この世に存在しないのと同じだと思ったからである。
この「マイ宗教」は良識のある人々が最終的に行き着く先であり、当然の思想なのだと信じるからである。
しかし、わかってもらいたいだとか、一般に広めたいなどとはまったく思っていない。ほんの数人が、全然同意してくれなくても、知ってもらうだけでも本望である。
この世界に存在することになればいいだけだ。